十二年の約束:お姫様抱っこの記憶
舞夢宜人
第1話 汗とシャンプーの記憶:借り物競争の瞬間
白線を引くために撒かれた石灰の匂いが、九月の熱を帯びた風に乗って運ばれてくる。じりじりと肌を焼く太陽の下、年に一度の体育祭は、生徒たちの若さとエネルギーを吸い込んで、その熱気をさらに増幅させていた。スピーカーから流れるどこかで聞いたことのあるポップソングが、歓声と土埃に混じり合って、非日常的な高揚感を演出している。俺、高瀬隼人は、そんな喧騒の中心から少しだけ距離を置き、冷静にトラックを駆けるクラスメイトの姿を目で追っていた。野球部を引退して以来、久しぶりに味わう全身の筋肉が発する心地よい疲労感と、額を伝う汗の感触が、どこか懐かしい。
俺たちのクラスのテントでは、親友の藤堂誠が、クラスメイトたちと馬鹿騒ぎをしていた。誠の隣には、幼馴染で恋人でもある篠崎莉子が、呆れたような、それでいてどこか楽しそうな表情で座っている。あの二人は、もうすぐ付き合うだろうとクラス中の噂になっていた。誠の開放的で裏表のない性格と、莉子の冷静で現実的な視点は、不思議と調和が取れている。彼らを見ていると、安定という言葉が自然と頭に浮かんだ。
プログラムは順調に進み、午後の目玉競技であるクラス対抗リレーを前に、少しだけ気の抜けた種目が続いている。その一つが、借り物競争だ。各クラスの代表が、トラックの中央で引いたお題に書かれた「モノ」や「ヒト」を、観客席や生徒たちの間から探し出し、ゴールを目指す。単純明快なルールだが、お題によってはドラマが生まれることもある。
「隼人、次、お前な」
不意に誠に背中を叩かれ、俺は現実に引き戻された。どうやら、クラスの代表の一人に、俺が選ばれていたらしい。特に断る理由もなく、俺は軽く頷くと、スタートラインへと向かった。隣のレーンでは、誠が「俺もだぜ!勝負な、隼人!」と、太陽のように明るい笑顔で拳を突きつけてくる。俺は苦笑いでそれに答えながら、軽く屈伸をして身体をほぐした。
号砲が鳴り響き、俺たちは一斉にトラックの中央に置かれたテーブルへと駆け寄る。折り畳まれた紙が、運命の分かれ道のようにずらりと並んでいた。俺は無造作に一枚を手に取り、走りながらそれを開いた。そこに書かれていた文字を視界に入れた瞬間、俺の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
『一番大切な人』
思考が、一瞬だけ停止する。一番、大切な人。その言葉が持つ重みが、ずしりと全身にのしかかるようだった。周囲を見渡せば、誠が「好きな人!」というお題を引いたらしく、雄叫びを上げながら莉子の元へと一直線に走っていくのが見えた。観客席から「ひゅーひゅー」という開放的な冷やかしの声が飛ぶ。誠らしい、迷いのない行動だった。
だが、俺は動けなかった。内向的で、感情を表に出すのが苦手な俺にとって、それはあまりにも難易度の高いお題だった。クラスの中心で、いつも太陽のように笑っている彼女。結城葵。誰にでも優しく、その周囲には常に人の輪ができている。俺のような、クラスでは目立たない存在とは住む世界が違う。それでも、俺の視線は、いつだって彼女を追っていた。彼女の明朗快活な笑顔の裏に、時折見える、ほんの僅かな翳り。それに気づいてから、俺の心は完全に彼女に奪われていた。守りたい、と強く思った。この感情が恋なのだと自覚するのに、時間はかからなかった。
葵を指名する?馬鹿を言え。クラスの人気者である彼女を、全校生徒が見守るこの場所で指名するなんて、公開処刑に等しい。断られたら?いや、彼女の性格上、断ることはないだろう。だが、その優しさに甘えることが、果たして許されるのだろうか。俺の脳裏で、理性と欲望が激しくせめぎ合う。足が、まるで地面に縫い付けられたかのように動かない。クラスメイトたちの「高瀬、早く!」という声が、遠くに聞こえる。
その時だった。風が吹き、俺たちのクラスのテントの方から、ふわりと甘い香りが運ばれてきた。それは、葵が使っているシャンプーの香りだった。以前、教室の席替えで彼女が隣になった時、風が吹くたびに感じた、俺の心を落ち着かなくさせる香り。その嗅覚の記憶が、俺の背中を強く押した。もう、どうなってもいい。このチャンスを逃せば、きっと一生後悔する。俺は、まるで硬直から解き放たれたかのように、葵がいるテントへと向かって、地面を強く蹴った。
一直線に、彼女の元へ。周囲の生徒たちが、驚いたように俺の進路から道を空ける。葵は、親友の莉子と談笑していたが、鬼気迫る形相で近づいてくる俺に気づき、その大きな瞳を驚きに見開いた。俺は、彼女の目の前で急停止すると、乱れる息を整えながら、震える声で言った。
「結城、頼む。来てくれないか」
俺の言葉に、テントの中が、そして俺たちの周囲にいた生徒たちが、一瞬にして静まり返る。葵は、数秒間、瞬きを繰り返していたが、やがて状況を理解したのか、その頬を夕焼けのように赤く染めた。そして、隣にいた莉子に背中を押され、こくりと小さく頷いた。
「うん、いいよ」
その返事を聞いた瞬間、俺は安堵から全身の力が抜けそうになるのを必死で堪えた。そして、次にとるべき行動を、一瞬だけ躊躇する。手を繋いで走るのか?いや、それでは誠たちの二番煎じだ。それに、このお題の「重み」を表現するには、もっと相応しい方法があるはずだ。俺の中に眠っていた、強い庇護欲が頭をもたげる。そうだ、この華奢な身体を、俺が守り抜くのだと、みんなに見せつけるんだ。
俺は覚悟を決めると、葵の膝の裏と背中に、そっと自分の腕を差し入れた。
「えっ」
葵の戸惑いの声が聞こえたが、俺は構わずに、彼女の身体をふわりと抱き上げた。いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。想像していたよりもずっと軽く、そして柔らかい感触が、Tシャツ越しに腕に伝わってくる。野球で鍛えた俺の身体にとって、彼女の体重は羽のように軽かった。
抱き上げられた葵は、驚きのあまり、反射的に俺の首に腕を回した。その瞬間、俺の理性は完全に崩壊した。風にあおられた彼女の色素の薄い茶色の髪が、俺の顔を優しく撫で、あの甘いシャンプーの香りが、俺の思考を完全に麻痺させる。すぐ間近にある彼女の顔は、羞恥と驚きで真っ赤に染まっていた。俺の心臓は、これ以上ないほど激しく鼓動を打ち鳴らし、その音が彼女にまで聞こえてしまうのではないかと、本気で心配になるほどだった。冷静沈着だと言われ続けた俺の人生で、これほどまでに感情が昂ったことはなかった。
俺は、彼女の重みと、その温もりと、そして香りを全身で感じながら、ゴールへと向かって再び走り出した。周囲の歓声や冷やかしの声は、もう俺の耳には届いていなかった。ただ、腕の中にいる葵の存在だけが、世界の全てだった。
ゴールテープが目前に迫った、その時。俺の首に回された葵の手に、きゅっと僅かに力が込められた。そして、耳元で、か細く震える声が囁いた。
「ありがとう、高瀬くん」
その声の震えが、まるで電流のように俺の全身を駆け巡った。俺は、彼女に聞こえないように、小さく息を呑んだ。ゴールラインを駆け抜けた瞬間、パシャリ、と乾いたシャッター音が聞こえた気がした。見れば、コースの脇で、写真部の腕章をつけた生徒が、こちらにカメラを向けている。そのレンズの奥で、誰かが笑ったような気がした。
「やるじゃねえか、隼人!」
先にゴールしていた誠が、莉子と一緒に駆け寄ってきて、俺の肩をバンバンと叩いた。莉子も、口元に手を当てて笑っている。その二人の開放的な笑顔に、俺と葵を包んでいた極度の緊張感が、ふっと和らいでいくのを感じた。
俺は、ゆっくりと葵を地面に降ろした。彼女は、まだ顔を赤らめたまま、俯いてしまっている。だが、その表情は、決して嫌がっているようには見えなかった。
この瞬間が、俺たちの十二年に渡る物語の、本当の始まりだった。汗と、土埃と、そして彼女のシャンプーの香りが混じり合ったこの日の記憶は、これから何度も、俺の心を支え、そして締め付けることになる。俺はまだ、そのことを知らなかった。
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