第9話 東の塔へ

 竜二は「剛力」の概念コトバでバリケードの瓦礫をわずかに動かし、二人が通れるだけの隙間を作った。

 ゴウ、と隙間の向こうから、淀んだ空気が吹き込んでくる。拠点アジトである聖域の泉の清浄な空気とはまるで違う、カビと腐臭、そして濃厚な瘴気しょうきの匂いだった。


「……う……」


 ソフィアが、思わず口元を押さえる。彼女の吸血鬼ヴァンパイアとしての本能が、この空気を「毒」だと拒絶していた。


「……ソフィア、無理すんな。キツかったら、すぐに戻るぞ」


 竜二は、ソフィアの様子を気遣いつつ、自らも概念コトバによって生まれ変わった「粗末な槍」を握り直し、その暗闇へと足を踏み入れた。


「……大丈夫。竜二こそ、魔力、無駄遣いしないで」


 ソフィアも、意を決したように竜二の背後に続く。彼女は、拠点アジトの瓦礫から見つけた水差しに満たした聖水を、大切に抱えている。竜二の魔力が切れた時、すぐに補給するための「予備タンク」だ。


「……へっ。うるせえ」


 竜二は、懐から「光る石」を取り出し、前方を照らす。バリケードの残骸が転がる、薄暗い回廊。ここからが、魔物のシマだ。


「……東の塔、だったな。どっちだ?」

「……こっち。この回廊を抜けて、大階段を少し登る……。気配、探るね」


 ソフィアは目を閉じ、集中する。魔石を喰らい、聖水を飲んだことで、彼女の吸血鬼ヴァンパイアとしての「感知能力」が、わずかながら戻り始めていた。


「……遠くに、二つ……ううん、三つ。小さい……。たぶん、腐鼠グレイブ・ラット……ネズミの魔物」

「ネズミ、ね。……まあ、犬っコロよりはマシか」


 竜二は、自分の体に概念コトバをかける。


(対象、「俺」。概念コトバ、「持久」。「剛力」はまだ温存だ)


 「剛力」は魔力消費が激しい。腐狼グレイブ・ウルフクラスの敵が出てくるまで、魔力は節約するに越したことはない。

 竜二は、ヤンキー時代に培った、物音を立てない歩き方で、ゆっくりと回廊を進んでいく。ソフィアも、その背中に必死についていった。


 ギシリ、と崩れた天井を踏みそうになり、竜二は足を止める。「光る石」の明かりが、腐り落ちたタペストリーや、砕けた鎧の残骸を照らし出す。ソフィアが、かつて「我が家」と呼んだ場所の、むごたらしい成れの果てだった。


「…………」


 ソフィアは唇を噛み締め、その光景から目を逸らさなかった。今は、感傷に浸っている場合ではない。竜二の背中を守ることが、彼女の「役割」だったからだ。


「……竜二。近い……! 曲がり角の、向こう……!」


 ソフィアが、竜二の服の裾を触れないように引く。竜二は無言で頷くと、槍を中段に構え、壁に背をつけた。


 カサ、カサカサ……。暗闇の向こうから、複数の何かが床を引っ掻く、不快な音が聞こえてくる。


「……三匹、だな」


 竜二は、息を殺す。そして、角を曲がる瞬間、一気に踏み込んだ。


「――チィ!」


 そこにいたのは、ソフィアが言った通り、子犬ほどの、赤黒い目をした三匹の「ネズミ」だった。

 腐鼠グレイブ・ラット腐狼グレイブ・ウルフに比べれば雑魚だが、その牙には瘴気しょうきの毒がある。


「まず、一匹!」


 竜二は、まだ「剛力」を付与していない、己の腕力だけで、槍を突き出した。だが。ガキン! 腐鼠グレイブ・ラットの硬い毛皮に、槍の穂先が浅く弾かれた。


「……! クソ、硬えな!」

「チチチチ!」


 竜二が怯んだ隙を見逃さず、残りの二匹が、左右から同時に飛びかかってきた。 腐狼グレイブ・ウルフのようなパワーはないが、連携された動きは素早い。


「……面倒くせえ!」


 竜二は、その場で即座に概念コトバを発動した。


(対象、「俺」。概念コトバ、「剛力」! 対象、「この槍」。概念コトバ、「貫通」!)


 魔力が、一気に吸い上げられる。「硬化」や「鋭利」よりも、さらに直接的な「結果」を求める概念コトバ。燃費は最悪だ。だが、効果は絶大だった。


「――オラァ!」


 「剛力」で強化された腕が、槍を振るう。先ほどは弾かれたはずの腐鼠グレイブ・ラットの毛皮を、今度は「貫通」の概念コトバが付与された穂先が、まるでバターのように突き刺し、貫いた。


「チィィ――!」


 一匹目を仕留めるのと、二匹目の牙が竜二の肩に迫るのは、ほぼ同時だった。


「――竜二、左!!」


 ソフィアの悲鳴が飛ぶ。竜二は、槍を引き抜くのが間に合わないと判断し、槍を突き刺した一匹目ごと、盾にするようにして二匹目の牙を受け止めた。


「グ……!」


 衝撃で体勢が崩れる。そこへ、三匹目が竜二の足元……完全に死角となる背後から、アキレス腱を狙って飛びかかろうとしていた。


「――させない!」


 ソフィアが、叫びと同時に、抱えていた水差しの中身……「聖水」を、三匹目に向かって投げつけた。

 戦闘力皆無の彼女ができる、唯一の援護射撃。


 ビシャ! と聖水がかかった腐鼠グレイブ・ラットは、腐狼グレイブ・ウルフほどの劇的な反応は示さない。だが、聖なる魔力マナの清浄な力は、瘴気しょうきの塊である魔物にとって、熱湯以外の何物でもなかった。


「――チギィィィ!?」


 腐鼠グレイブ・ラットが、焼けるような痛みにもだえ、その場で転がり回る。竜二は、その一瞬の隙を見逃さなかった。


「……ナイスだ、ソフィア!」


 竜二は、突き刺していた一匹目を蹴り飛ばして槍を引き抜くと、反転。もだえ苦しむ三匹目の頭部に、強化された槍を、容赦なく突き立てた。


 ズブリ、という鈍い手応え。 三匹目の動きが、完全に止まる。


「……はぁ……はぁ……。クソ、危なかった……」


 竜二は、聖水を飲んで魔力を回復させながら、荒い息を整える。たかがネズミ三匹に、概念コトバを二重に発動させ、あわや死角から攻撃を受けるところだった。


「……ごめん、竜二。私、聖水、使っちゃった……」


 ソフィアが、空になった水差しを見て、申し訳なさそうに呟く。


「バーカ。アンタが使わなきゃ、俺の足がイカれてた。……ファインプレーだ」


 竜二は、ソフィアを労うと、仕留めた腐鼠グレイブ・ラット亡骸なきがらを蹴飛ばした。

 腐狼グレイブ・ウルフの時と同じように、そこには小さな「魔石」が三つ、残されていた。


「……チッ。小さいな。だが、ないよりマシか」


 竜二はそれをソフィアに拾わせ、彼女の「食事」とさせた。ソフィアの魔力が、ほんの少し、また回復する。


「……今の戦いで、分かった」


 竜二は、槍を握り締め直す。


「雑魚相手に、いちいち『貫通』みてえな大技を使ってたら、魔力が持たねえ」

「うん……。竜二の魔力、一気に減った……」

「だが、『剛力』だけじゃ、あの毛皮は抜けなかった。……もっと、効率のいい概念コトバ……」


 竜二は、自分の戦闘スタイルと、このハズレ職の「燃費」について、深く考察を始めた。

 ここは、ゲームの世界ではない。最適なスキルを選び、コストを管理しなければ、即「死」に繋がる。


「……行くぞ、ソフィア。次は、もっと上手くやる」

「……うん!」


 二人は、初めての「偵察戦闘」での反省を胸に、再び暗い回廊を進み始めた。目指すは、大階段を登った先にある、「東の塔」。




 その後、二人はさらに数体の腐鼠グレイブ・ラットと遭遇した。竜二は、試行錯誤を繰り返す。「剛力」と「貫通」の同時使用は避け、「剛力」で動きを封じ、「鋭利」で仕留める。あるいは、「持久」で防御に徹し、ソフィアの「索敵」で先手を取る。

 連携は、ぎこちないながらも、徐々に形になっていった。


 そして、どれだけ歩いただろうか。 ボロボロの大階段を登りきった二人の目の前に、ひときわ重厚な、オーク材で作られたであろう両開きの扉が現れた。


「……ここか?」「うん……。間違いない。ここが、父の……『書斎』」


 ソフィアが、緊張した面持ちで頷く。 竜二は、扉にそっと耳を当てた。


「……物音は、しねえな。魔物の気配は?」

「……ない。中は、静か……」

「……そうか」


 竜二は、槍を構え直す。 魔石があるかもしれない、最初の目的地。 だが、同時に、ソフィアの「過去」が眠る場所でもある。


「……よし。開けるぜ」


 竜二が、その重い扉に手をかけようとした、その時。


「――待って、竜二」


 ソフィアが、竜二の腕を、掴もうとして……寸前で止めた。その顔は、魔物に怯えるのとは、また違う種類の「恐怖」で、青ざめていた。


「……どうした?」

「……おかしい」

「……魔物の気配は、ない。でも……。……何か、別の……。冷たい、『何か』が……中に、いる……!」


 ソフィアは、扉を睨み据えたまま、震える声で言った。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る