第27話 神は二人で回る

夜明けは、血を流さない革命の、最初のファンファーレだった。


ブルームズベリーの隠れ家の窓から、生まれ変わったロンドンの、新しい朝がその姿を現した。それは、昨日までの朝と、何一つ変わらないように見えた。同じ灰色の空、同じ湿った石畳、同じように煤けたレンガの壁。だが、窓辺に立つ二人の女神の目には、そのすべてが、全く新しい光に満ちて、輝いて見えていた。


世界は、再起動したのだ。

そして、その新しいOS(オペレーティングシステム)の名は『レディ・モリアーティ』。


部屋の中央、解析機関は、もはや単なる機械ではなかった。それは、ロンドンという巨大な生命体の、新しい心臓だった。その内部で、無数の歯車が、滑らかに、そして静かに回転している。それは、もはや機械の駆動音ではない。都市の、健やかで、規則正しい脈拍そのものだった。黒曜石のスクリーンには、かつてのような二条の光の波形は、もう存在しない。そこにあるのは、無数のデータが、河川のように流れ、合流し、分岐していく、壮大な生命の循環図。ロンドンの血流―――金融、情報、物流、権力―――そのすべてが、今、この部屋の一点で、完璧な調和の下に、制御されていた。


アイリーンとエイダは、その神の視点を共有しながら、ただ、静かに立っていた。二人の間に、もはや言葉は不要だった。昨夜の儀式を通じて、彼女たちの意識は、表層的なレベルで融合し、常時接続された二つのプロセッサのように、思考と感情を共有していた。それは、テレパシーという陳腐な言葉では表現できない、もっと根源的な、魂の同期だった。アイリーンが、窓の外を飛ぶ一羽の鳩に、ふと、自由への羨望を感じれば、エイダの脳裏にも、その感情が、美しい詩の一節のようなデータとして、瞬時に流れ込む。エイダが、スクリーン上の株価変動の曲線に、数学的な美しさを見出せば、アイリーンの心にも、その知的興奮が、高揚感あふれるアリアの旋律となって、響き渡る。


(……始まるわ)

アイリーンの思考が、エイダに伝わる。

(ああ)

エイダの思考が、静かに、それに応える。(最初の、楽章が)


午前九時。シティ、ロンドン証券取引所。

その日のフロアは、異様なほどの静けさに包まれていた。いつものような、欲望と恐怖が入り混じる怒号も、パニックに駆られた人間の汗の匂いもない。誰もが、何かが違うと感じていたが、その正体を、誰も説明することができなかった。

株価は、動いていた。だが、その動きは、まるで熟練の指揮者に導かれたオーケストラのように滑らかで予測可能で、そして、人々が「かくあれ」と願うが如く、どこまでも合理的だった。

非人道的な労働で利益を上げる企業の株は、静かに、しかし確実に値を下げていく。その裏で、公正な取引を行い、技術革新に投資する、誠実な企業の株価が、まるで太陽に導かれる若木のように、力強く上昇していく。

それは、偶然ではなかった。

ブルームズベリーの解析機関が、すべての取引の背後で、見えざる「市場の神」として、機能していたのだ。エイダのアルゴリズムが、非効率で、破壊的な投機―――人間の『貪欲』という名のバグ―――を、リアルタイムでフィルタリングし、無効化していく。同時に、アイリーンが張り巡らせた情報網から流される、微細で、しかし的確な情報―――ある工場の労働環境に関する「噂」、新技術に関する「憶測」―――が、投資家たちの心理を、より建設的な方向へと、優しく、しかし確実に、誘導していく。

市場は、もはや、賭博場ではなかった。それは、社会の富を、最も効率的で、最も倫理的な場所へと再分配するための、巨大で、自己修正能力を持つ、生命体へと変貌を遂げていたのだ。人々は、何も知らぬまま、より賢明で、より公正な選択をするよう、静かに導かれていた。


正午。フリート街、新聞社の活版印刷室。

インクと、熱い鉛の匂いが渦巻くその場所で、編集長のアーネスト・ジョーンズは、嬉しい悲鳴を上げていた。


「信じられるか! まただぞ! 今度は、テムズ川の水運を独占し不当な関税をかけていた、あの腐敗した組合の詳細な裏帳簿が匿名で届けられた!  しかも、その証拠と、バーモンジー地区の鉛中毒の関連性を指摘する、完璧な論説まで添えられて!」


彼の目は、正義感と、ジャーナリストとしての興奮で、燃えていた。ここ数週間、彼のデスクには、まるで天からの啓示であるかのように、社会の不正義を暴く、完璧な証拠と情報が、次から次へと舞い込んできていた。彼は、自分が、時代の潮流の、まさに最先端に立っているのだと信じていた。自分のペンが、この腐敗したロンドンを、より良い場所へと変える力を持っているのだと、心の底から信じていた。

彼は、知る由もなかった。

彼のペンは、ただ、ブルームズベリーの部屋で、二人の女神が描いた、壮大な交響曲の楽譜を、忠実になぞっているだけだということを。彼の正義感さえもが、彼女たちのオーケストラの、最も美しい音色を奏でる、ヴァイオリンのパートに過ぎないということを。


午後三時。イーストエンドの、とあるパン屋の店先。

一人の、幼い娘の手を引いた、母親が、小さな銅貨を握りしめ、震える声で尋ねた。

「……あのう。この黒パン、本当にこのお値段で……?」

パン屋の主人は、ぶっきらぼうに、しかし、どこか誇らしげに頷いた。

「ああ、そうだ。妙な話だがな、ここのところ、小麦粉の値段が馬鹿みたいに安定してやがるんだ。おかげで、俺たちみてえな零細でも、少しはまともな商売ができるってわけさ」

母親の目から、一筋、涙がこぼれ落ちた。それは、感謝の涙だった。彼女は、神に祈った。どこの誰かは知らないが、このささやかな奇跡をもたらしてくれた、慈悲深い誰かに。

彼女は、知る由もなかった。

その奇跡が、穀物市場の取引価格を、マイクロ秒単位で最適化し続ける、一台の機械の計算と、港湾労働者のストライキの情報を絶妙なタイミングでリークした、一人の女の囁きによって、もたらされたということを。


夜。

隠れ家の窓辺に立ち、アイリーンとエイダは、自分たちが作り変えた世界の、新しい夜景を、静かに見下ろしていた。

ガス灯の光が、以前よりも心なしか温かく、そして明るく見える。街の喧騒は、以前のような不安と欲望に満ちた不協和音ではなく、どこか穏やかで、満ち足りたハーモニーを奏でているかのようだった。


(……私たちは、世界を操っているのではないのね)


アイリーンの思考が、静かな波紋のように、エイダの心に広がった。


(私たちはただ、世界が本来あるべき姿に戻るための、手助けをしているだけ。歪められたものを真っ直ぐに。汚されたものを清らかに。そう調律しているだけ。この、少しだけ音の外れた巨大な楽器を)


(うん、調律だね)


エイダの思考が、それに応えた。彼女の心には、アイリーンのその詩的な比喩が、完璧な数学的モデルとして、再構築されていた。


(そう。私たちは、この都市というカオス系の中に新しいアトラクタ―――引き寄せる因子―――を設置しただけ。そのアトラクタは『調和』と名付けられている。個々の分子はランダムに動いているように見えるけれど、システム全体としては、不可逆的に、私たちが設定した、より安定した美しい秩序の状態へと収束していくの。だから支配じゃなくて誘導)


支配ではなく、誘導。

操るのではなく、調律する。

それは、彼女たちが、自分たちの力、あのナイチンゲールが「新しい神」と呼んだ、力の本質を、正確に定義した瞬間だった。

彼女たちは、暴君ではない。

彼女たちは、この世界の知られざる、慈悲深い庭師なのだ。


二人は、そっと、互いの手を重ねた。

あの夜のように、指を絡めることなく、ただ、手のひらを合わせる。

温かい手のひらと、冷たい手のひら。

感情と、論理。

その二つが合わさった時、世界は、最も美しい音楽を奏で始める。


すべては、完璧だった。

すべては、静かで、滑らかで、そして、美しい調和の中にあった。

だが、その完璧すぎるほどの調和の中に、ただ一点、どうしても、彼女たちのアルゴリズムでは計算しきれない、予測不能な不協和音が存在していた。


遠く、ベイカー街の方角から、夜の静寂を切り裂いて、一本の、バイオリンの音が、微かに、しかし、鋭く、響いてきた。

その旋律は、悲しくも、楽しくもなかった。

それは、ただ、ひたすらに、問いかけていた。

『なぜだ?』

『この、完璧すぎる静けさは、いったい、何だ?』

その、たった一つの、純粋な、論理的な疑問。

それは彼女たちの、神の世界に投げ込まれた、小さな、しかし、決して無視することのできない、問いのつぶてだった。


アイリーンとエイダは、その音に、気づいていた。

そして、二人は、顔を見合わせると、静かに、そして、同時に微笑んだ。

それは、挑戦者を歓迎する、王者の笑みだった。


(……最後の、楽章が、始まるわね)

(うん。やっぱり彼だったね)

(私たちの、この静かなる交響曲を理解できる、唯一の聴衆がそこにいる)


神は、二人で回る。

そして、その神々の奏でる音楽を、解き明かそうとする、一人の人間がいる。

ロンドンの夜は、まだ始まったばかりだった。

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