第25話 嵐の前の静けさ
決行前夜。
ブルームズベリーの隠れ家は、嵐の中心のように、静まり返っていた。外の世界では、二人が放った三本の矢が、それぞれ目に見えない軌道を描きながら、標的へと向かって飛翔しているはずだった。
銀行頭取の虚栄心という的、新聞主筆の正義感という的、そして、ロンドンの汚れた土壌という的。そのすべてが、明日という一点の未来に向かって、寸分の狂いもなく収束していく。
その壮大で精密な計算の中心であるこの部屋だけが、まるで世界の時間から切り離されたかのように、穏やかな静寂に満ちていた。
解析機関は、その日の役目を終え、今はただ、穏やかな呼吸をするように、静かに駆動音を響かせているだけだった。すべての計算は終わり、すべてのシミュレーションは完了した。あとは、現実という名の舞台が、自分たちの書いた脚本通りに動くのを、待つだけだった。それは、宇宙の法則を信じて、惑星の軌道上に宇宙船を送り出した天文学者の、祈りにも似た心境だった。
エイダは、床に座り込み、解析機関の巨大な胴体に、その細い背中を預けていた。
今、彼女の手には、工具でも、穿孔カードでもなく、一冊の、古びた革張りの本が握られている。それは、彼女の心の慰めである、ユークリッドの『原論』だった。
だが、彼女の目は、その定理と証明の連鎖という完璧な美しさの上を、ただ滑っているだけだった。彼女の意識は、もっと別の、不確かで計算不能な領域を彷徨っていた。
アイリーンは、部屋の隅にある小さなキッチンで、ゆっくりと、何かを煮込んでいた。鍋から立ち上る湯気は、シナモンと、クローブと、そして、温められた赤ワインの、甘く、スパイシーな香りを部屋に満たしていく。それは、冬の夜に身体を温めるための、ホットワインの香りだった。
今日の彼女は、まるで、これから戦場へ赴く兵士のために、最後の温かい食事を用意する従軍看護師のようだった。その手つきは、穏やかで落ち着き払っている。だが、その背中には、隠しようのない緊張が薄氷のように張り詰めていた。
やがて、アイリーンは、二つの銀のカップに、ルビー色に輝く温かい液体を注ぎ、その一つを、エイダの元へと運んできた。
「……はい、飲んで」
その声は、命令とも、慰めともつかない、優しい響きを持っていた。
「身体が冷えているわ。あなたのその素晴らしい頭脳も、凍えてしまっては役に立たないでしょう?」
エイダは、ゆっくりと顔を上げた。その灰色の瞳には、これまでアイリーンが見たことのない、深い疲労の色が浮かんでいた。それは、肉体的な疲労ではない。神の領域を覗き見てしまった者の、魂の疲労だった。
「……ありがとう」
エイダは、素直にカップを受け取った。温かい銀の感触が、彼女の冷え切った指先に、じんわりと生命の熱を伝えていく。
アイリーンは、エイダの隣に、音もなく腰を下ろした。
彼女もまた、解析機関の冷たい胴体に、その背中を預ける。二人は、同じ方向―――何も映していないただの壁―――を見つめながら、静かに温かいワインを一口ずつ、口に含んだ。
シナモンの香りが、鼻腔をくすぐる。ワインに含まれた砂糖の甘さが、疲れた脳に染み渡る。
「怖い?」
最初に沈黙を破ったのは、エイダだった。
その、あまりに直接的で、あまりに人間的な問いに、アイリーンは、少しだけ驚いたように、目を見開いた。そして、ふっと、息を吐き出すように、笑った。
「ええ。怖い、というよりも……そうね。初めてオペラの舞台に立った、あの日の夜に似ているわ」
彼女は、遠い昔を懐かしむように、目を細めた。
「幕が上がる前。舞台袖の暗闇の中で、心臓が、喉から飛び出してしまいそうなくらい、激しく脈打つの。これから自分が歌うアリアの旋律も、観客の顔も、何もかもが、頭の中から消え去って、ただ、圧倒的な恐怖だけが全身を支配する。でも……」
彼女は、エイダの方へと、静かに視線を移した。
「……不思議なの。その恐怖が、頂点に達した瞬間、ふっと、身体が軽くなるのよ。自分というちっぽけな存在が消えて、ただ、音楽そのものになる。あとは、もう、何も考えない。ただ、歌うだけ。そうすれば、いつの間にか嵐は過ぎ去り、気がつけば万雷の拍手の中に立っている」
それは、アイリーン・アドラーという、嘘と仮面で生きてきた女の、本心の告白だった。彼女の強さの源は、恐怖を知らないことではなかった。その恐怖を受け入れ、乗り越え、自らのエネルギーへと変換する、その術を知っていることだったのだ。
エイダは、その言葉を黙って聞いていた。
そして、自分のカップの中の赤い液体を、じっと見つめた。
「……私には、分からない」
彼女の声はか細く、どこまでも誠実だった。
「私の世界では、恐怖は、システムエラーの一種。回避し、排除すべき、ノイズ。でもあなたは、それを力に変えるという。……私には、そのアルゴリズムが理解できないの」
彼女は、アイリーンから視線を逸らし、自分の膝の上で、固く、指を組んだ。
「私は怖い。今、この瞬間も。私たちの計算は、ほとんど完璧なはず。シミュレーションでは、成功確率は、99.8%を超えている。でも残りの0.2%……。その計算不能な不確定要素が、いつも私を不安にさせるの。現実という名の舞台は決して、私たちの書いた脚本通りには、動いてくれない」
それは、論理の天才が初めて率直に漏らした、自らの限界だった。
(この子は、自信満々に見える顔で、いつもこんな風に震えていたのね)
アイリーンは、そんなエイダの姿を、愛おしげに見つめていた。
そして、彼女はそっと自分のカップを床に置くと、エイダの固く組まれた手の上に、自分の手を優しく重ねた。
「そうよ。現実は、いつだって、私たちの想像を超えるわ」
アイリーンの声は、まるで母親が怖がる子供をあやすように、穏やかだった。
「でも、それでいいのよ、エイダ。もし、すべてが計算通りに進む世界なんてものがあったとしたら……それは、なんて退屈で、つまらない世界かしら」
彼女は、エイダの手を、優しく解きほぐした。
「あなたの完璧な数式と、わたくしの不完全な直感。その二つが合わされば、きっと、どんな不確定要素も、乗り越えられる。たとえ脚本にないアクシデントが起きても、二人で新しいアリアを即興で歌えばいいのよ」
エイダは、何も言わなかった。
ただ、アイリーンの手の温もりを、そして、その言葉が持つ非論理的で、しかし絶対的な安心感を、全身で感じていた。
それでもエイダはぽつりと、最も根源的な問いを口にした。
「……もし、失敗したら?」
その問いにアイリーンは、花が咲くように微笑んだ。
それは、これまで彼女が浮かべた、どんな微笑みよりも強く美しい、覚悟に満ちた微笑みだった。
「その時は、世界ごと、止めればいい」
その言葉は、もはや、比喩ではなかった。
ヴィクトリア暗号を暴走させ、ロンドンの情報網、金融システム、そのすべてを、道連れにして、破壊する。
二人がいなければ、この世界は回らない。
そして、もし、この世界が、二人でいることを許さないのなら、そんな世界は、こちらから壊してしまえばいい。
それは究極の愛であり、そして究極の破壊衝動だった。
エイダは、その言葉を聞いて、初めて、心の底から笑った。
それは、少女のような、無垢で、少しだけ残酷な笑みだった。
「ふふ……うん。それが最も論理的な最終解」
二人は、見つめ合い、そして、静かに笑い合った。
もう、恐怖はなかった。
不安も、なかった。
ただ、明日、共に戦う共犯者への、絶対的な信頼だけが、そこにあった。
窓の外では、月が雲の合間に隠れ、ロンドンの街は深い闇に包まれていた。
それは、新しい世界の誕生を前にした、最後の夜だった。
嵐の前の静けさ。
二人の女神は、その静寂の中で、ただ静かに、夜が明けるのを待っていた。
自分たちの脚本で、世界の幕が上がる、その瞬間を。
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