第19話 仮面を外すとき
ピ、ピ、ピ、ピ……!
警告音は、もはや単なる電子音ではなかった。それは、死にゆくシステムの断末魔の喘ぎであり、破滅へと向かう時間を刻む、冷酷な秒針の音だった。部屋の空気は、その無機質な音の刃によって、ずたずたに切り裂かれている。エイダは、銀の音叉を握りしめ、ソファで眠るアイリーンの前に立っていた。その距離、わずか数フィート。だが、それは、決して渡ることのできない、絶望的な深淵のようにも感じられた。
言葉は、通じない。論理は、砕け散った。彼女に残された唯一の言語は、もはや、魂の振動そのものだった。
エイダは、震える息を、ゆっくりと、一度だけ吐き出した。そして、その息を吸うことなく、彼女は動いた。思考ではない。本能が、彼女の身体を突き動かしていた。
彼女は、アイリーンが頭まで引き被っていた毛布を、何の躊躇もなく、乱暴に剥ぎ取った。
突然、隠れ家を失ったカタツムリのように、アイリーンの小さな身体が、冷たい空気に晒される。彼女は眠ってはいなかった。固く閉じられた瞼が、微かに震えている。彼女は、この世界のすべてを拒絶し、意識の最も深い場所に、鍵をかけて閉じこもっていたのだ。
「アイリーン!」
エイダの声は、命令でも、懇願でもなかった。ただ、名前を呼んだ。それだけだった。
返事はない。アイリーンは、石のように動かない。
警告音が、さらにその速度を速める。まるで、嘲笑うかのように。
エイダは、もうためらわなかった。彼女は、アイリーンの左手を探し当て、その冷たい指を、強引に掴んだ。
その瞬間、アイリーンの身体が、大きく跳ねた。
「……やめて」
か細い、しかし、鋼線のような拒絶を帯びた声が、その唇から漏れた。彼女は、固く閉じていた目を見開き、エイダを睨みつけた。その瞳は、涙の痕はとうに消え、代わりに、深く傷ついた動物だけが持つ、触れるものすべてを傷つけようとする、昏い炎を宿していた。
「触らないで……!」
アイリーンは、エイダの手を振り払おうと、必死にもがいた。だが、エイダの指は、まるで鋼鉄の枷のように、彼女の手首を離さなかった。いつもはインクと機械油の匂いしかしないその指が、今は、信じられないほどの力で、彼女の自由を奪っていた。
「離して、エイダ! あなたに、わたくしに触れる資格なんてない!」
「資格なんて、いらない!」
エイダが、叫んだ。その声は、裏返り、ひび割れていた。それは、彼女がこれまでの人生で、一度も発したことのない、剥き出しの、感情の音だった。
エイダは、アイリーンの抵抗を力で封じ込めながら、もう片方の手で、銀のクリップを彼女の指先に、半ば無理やり装着した。そして、音叉の冷たい柄を、脈打つ手首に、強く押し当てた。
「いやっ……!」
アイリーンの、絹を裂くような悲鳴が、部屋に響いた。自分の内面を、再びこの冷たい機械に接続される。それは、魂に対する、許しがたい陵辱だった。
エイダは、アイリーンの悲鳴に耳を貸さなかった。彼女は、狂気に駆られた外科医のように、自らの手にも同じ装置を取り付け、震える指で、解析機関の補助電源に接続された、同期システムのスイッチを起動させた。
黒曜石のスクリーンに、再び、二条の光の波形が描き出される。
だが、それは、かつてのような美しい対旋律ではなかった。
二つの波形は、まるで互いを憎み合う二匹の獣のように、激しく暴れ、反発し合い、不規則なノイズの嵐をスクリーン上に描き出していた。アイリーンの波は、恐怖と怒りで振り切れんばかりに乱高下し、エイダの波もまた、焦りと絶望を映して、痙攣するように震えている。
それは、魂の対話ではなかった。魂の、殴り合いであり、殺し合いだった。
「やめて……もう、やめて……!」
アイリーンは、涙ながらに懇願した。スクリーンの上で暴れる光の軌跡は、エイダの混乱と絶望を、あまりに鮮明に彼女に伝えてきた。それは、彼女が知っている、冷静で、完璧なエイダではなかった。壊れかけの機械のように、火花を散らし、悲鳴を上げている、ただの、脆く、孤独な魂の姿だった。
「なぜ……なぜ、こんなことをするの……!?」
「こうでもしないと、分からないから!」
エイダは、アイリーンの瞳を、至近距離から見つめ返し、叫んだ。
「あなたのことが、分からない! あなたが何故泣くのか、なぜ心を閉ざすのか、どうすれば、あなたがまた笑ってくれるのか……! 私の論理では、私の数式では、その答えが、どこにもないから!」
エイダの瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
論理の神が、初めて流した、無力さの涙だった。
その熱い滴が、アイリーンの頬に、ぽつりと落ちた。
「言葉では、もう、あなたに届かない。だから……これしか、方法がないの! 言葉じゃない、論理でも数式でもない。私の、この……どうしようもない、このバグだらけの魂を、あなたに直接見せるしか……!」
その瞬間、アイリーンの抵抗が、ふっと止まった。
彼女は、目の前で泣きじゃくるエイダの顔を、呆然と見つめていた。
完璧な仮面が剥がれ落ち、論理の鎧が砕け散った、ただの、不器用で必死な、一人の人間の姿。
アイリーンは、いつも、エイダの完璧さに憧れ、そして、嫉妬していた。その完璧さが、自分を決して受け入れてはくれないだろうと、絶望していた。
だが、今、目の前にいるのは、完璧などでは到底ない、自分と同じように、傷つき、迷い、そして、孤独に震える魂だった。
スクリーンに映るエイダの波形が、アイリーンの心に、言葉以上の雄弁さで語りかけてくる。
そこにあったのは、冷徹な計算ではなかった。
ただ、純粋な『恐怖』だった。
計画が失敗することへの恐怖ではない。ホームズに捕まることへの恐怖でもない。
ただ一つ、アイリーン・アドラーという、唯一の理解者を、永遠に失ってしまうことへの、根源的で子供のような絶対的な恐怖。
(……ああ)
アイリーンの心の中で、厚い氷が、音を立てて砕け始めた。
(……そうか。あなたも、怖かったのね)
彼女は、ゆっくりと、抵抗をやめた手を持ち上げ、エイダの頬にそっと触れた。その涙を、優しく拭う。
「……嘘をつくなら、仮面を外してから」
アイリーンが、震える声で囁いた。それは、二人が、戯れのように交わした、唯一のルールだった。
「……それは、あなたも同じよ、エイダ」
エイダは、驚きに目を見開いた。
アイリーンは、悲しげに、しかし、どこまでも優しい微笑みを浮かべていた。
「わたくしも、ずっと、仮面を被っていたわ。妖艶な歌姫の仮面。嘘と誘惑を操る、強い女の仮面。でも、本当は……」
彼女の瞳から、再び、涙が溢れ出した。だが、それは、先程までの怒りや絶望の涙ではなかった。氷が溶けて、春の小川になるような、温かい、解放の涙だった。
「……本当は、ただ、怖かったの。あなたに見捨てられるのが。あなたの完璧な世界にとって、わたくしのような不完全な人間は、ただの邪魔な存在になるんじゃないかって。だから……だから、あなたを『支配』しているという、くだらない仮面を被って、自分の弱さから目を背けていたのよ」
それは、アイリーン・アドラーが、生まれて初めて、誰かに見せた、本当の、剥き出しの弱さだった。
エイダへの依存を、彼女は「支配」という言葉で誤魔化していた。彼女を失う恐怖を、優位に立っているという幻想で覆い隠していた。
「あなたを失うのが、怖い……」
その告白が、最後の鍵だった。
二人の魂を隔てていた、最後の壁が、完全に崩れ落ちた。
アイリーンが、そっと、エイダの身体を抱きしめる。
エイダもまた、壊れ物を抱くように、そのか細い身体を、強く、強く、抱きしめた。
その瞬間、スクリーン上で、嵐のように荒れ狂っていた二つの波形が、奇跡のように、その動きを止めた。
そして、これまでのどの同期よりも、深く、穏やかに、そして、完璧に、重なり合い、一つの、美しい正弦波(サインウェーブ)となって、静かに脈打ち始めた。
それは、もはや二つの波ではなかった。
一つの、魂の律動だった。
ピ、ピ、ピ、ピ……!
けたたましく鳴り響いていた警告音が、不意に、その音を止めた。
部屋に、再び、静寂が戻る。
だが、それは、もはや死の静寂ではなかった。
再起動した解析機関が、新しい生命を吹き込まれ、滑らかに駆動し始める、誕生の静寂だった。外部からの攻撃を探知したシステムが、自己防衛プロトコルを起動し、無数の偽情報(デコイ)を放って、敵の探査を完全に無力化したのだ。
危機は、去った。
二人は何度となく、ゆっくりと身体を離そうとし、もう一方が引き留める、といったことを繰り返した。。
互いの顔は、涙でぐしょ濡れだった。だが、その表情は、嵐が過ぎ去った後の夜明けの空のように、どこまでも晴れやかだった。
言葉は、もう必要なかった。
部屋には、解析機関の規則正しく、以前よりもどこか温かく感じられる駆動音だけが、優しく響いていた。
それは、壊れた世界の残骸の上に新しく生まれた、たった二人のための王国の最初の産声だった。
その王国の礎は、論理でも支配でもない。
ただ、互いの弱さを受け入れ分かち合うという、不器用で、だからこそ何よりも強い、絆そのものだった。
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