第17話 計算できない言葉

シャーロック・ホームズという嵐が去った後、隠れ家には、墓場よりも深い、真空の静寂が降りてきた。先

程までの極度の緊張が嘘のように、世界の時間が止まってしまったかのようだった。扉一枚を隔てた攻防で燃え尽きたアドレナリンが、今は冷たい灰となって、アイリーンの血管の底に沈殿していく。

彼女は、背中を扉に預けたまま、かろうじて立っていた。指先は氷のように冷え、震えが止まらない。完璧な仮面の下で、彼女の魂は、嵐に翻弄された小舟のように、激しく揺さぶられていた。


その背中に、機械の影から現れたエイダの、ためらいがちな視線が突き刺さる。

エイダは、動けずにいた。彼女の頭脳は、今この瞬間に取るべき最適な行動を、猛烈な速度で計算しようとしていたが、答えはどこにも見つからなかった。

目の前で震えているアイリーンは、もはや彼女の知る変数ではなかった。それは、すべての法則を超えた、予測不能な特異点。彼女の論理体系そのものを脅かす、美しく、そして恐ろしいバグだった。


「……見事な演技……だった」

沈黙を破ったのは、エイダだった。その声は、いつも通りの平坦さを装っていたが、その奥に、彼女自身にも制御できない微かな揺らぎがあった。

「あ、あなたの生成した偽情報(フェイク)は、ホームズの論理的探査(ロジック・プローブ)を完全に回避した。リスク回避の観点から見て、完璧な対応」


エイダの精一杯のその言葉は、しかし火に油を注ぐ以外の何物でもなかった。

アイリーンは、ゆっくりと、本当にゆっくりと、振り返った。その顔からは血の気が失せ、代わりに、深く、昏い怒りの炎が、その翡翠色の瞳の奥で燃え上がっていた。彼女の唇が、震えながら、言葉の形を作る。


「……演技?」

彼女の声は、ひび割れたガラスのように、か細く、そして危険な響きを帯びていた。「わたくしが、今、何をしていたか、あなたにはそう見えるの?  リスク回避?  完璧な対応?  まるで、あなたの機械の性能を評価するみたいに!」


彼女は一歩、エイダに向かって踏み出した。その足取りは、まるで夢遊病者のように覚束ない。

「わたくしは、怖かった! あなたに想像もできないほど! あの男の目が、わたくしの嘘も、仮面も、心の奥底までも見透かしているようで……! でも、逃げるわけにはいかなかった! あなたを守るために! この、あなたが作り出した、冷たくて、孤独な、この世界を、守るためだけに!」


叫びと共に、アイリーンの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。それは、社交界で見せる、計算された涙ではない。魂の最も柔らかな部分が引き裂かれた時に流れる、熱く、しょっぱい、本物の滴だった。


「それなのに、あなたは……! あなたは、そのすべてを、ただの『データ』として見ていたのね! わたくしの恐怖も、必死の嘘も、あなたのシステムを構成する、都合のいい部品でしかなかった! 『排除しなければならない』ですって!? ええ、そうでしょうね! あなたの完璧な数式の世界では、わたくしのこんな醜い感情は、ただのノイズでしかない!」


彼女の言葉は、もはや論理的な非難ではなかった。それは、傷ついた獣の、痛切な咆哮だった。

エイダは、その感情の奔流を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。アイリーンの涙が、まるで強酸のように、彼女の論理回路を焼き切っていく。どうすればいい? どう返せばいい? 謝罪? だが、何に対して? 盗聴したことか? 「排除」という言葉を使ったことか? それとも、彼女を傷つけた、自分の存在そのものに対してか?


「違うの……」

エイダは、かろうじて、その一言を絞り出した。

「システムを評価したんじゃない。あなたの、その……力を。あなたにしかできない、その力を……」

「力ですって!?」

アイリーンは、自嘲するように笑った。涙で濡れたその顔は、悲劇の舞台のヒロインのように、痛々しく、そして美しかった。

「これは力なんかじゃないわ! これは、呪いよ! 人を欺き、自分を偽り、そうしなければ生きていけなかった、わたくしの哀れな処世術! あなたは、その呪いさえも、自分の機械の燃料にしようとした! あなたは、わたくしの魂を、一体なんだと思っているの!?」


その問いに、エイダは答えられなかった。

魂。

その非科学的で、定義不可能な概念。彼女の思考は、その言葉の前で、完全に行き詰まった。

エイダは必死に、自分の言語で、自分の誠意を伝えようと試みた。

それは今、彼女にできる、唯一の、そして最も不器用な方法だった。


「……そうじゃない。そうじゃないの、アイリーン」


エイダは、一歩前に出た。その目は、必死に何かを訴えていた。


「問題はあなたじゃない。私の方なの。私のシステムが、あなたという入力に対し、適切な処理を行えず、エラーを起こした。あなたの感情のデータ量が、私の設計したCPUの処理能力の許容量(キャパシティ)を、完全に超えてしまったのよ。だから、悪いのは……脆弱なシステムを設計した、私なの」


それは、エイダなりの、最大限の譲歩であり、自己批判であり、そして、歪んだ愛の告白だったのかもしれない。

だが、その言葉は、アイリーンの耳には、最悪の侮辱としてしか響かなかった。


「……まだ、言うのね」

アイリーンの声から、温度が消えた。涙は、すでに乾いていた。残ったのは、燃え尽きた荒野のような、絶対的な虚無だった。

「わたくしは、データじゃない。入力でもない。あなたの機械の処理能力なんて、知ったことじゃないわ! わたくしは、ただ……ただ、あなたに、わたくしの心を見てほしかった。数式や、データとしてではなく、ただの心として……」


彼女は、ふらふらと、テーブルへと歩み寄った。そこには、彼女が命懸けで手に入れた、スタンホープ侯爵の覚書が、無造作に置かれている。

「もう、うんざりよ。こんなゲームは」

彼女は、その羊皮紙を、まるで汚物でも掴むかのように、指先でつまみ上げた。

「これが、そんなに大事? この紙切れ一枚のために、わたくしは心を売り、あなたは心を閉ざした。馬鹿げているわ」


そして、彼女は、その羊皮紙を、ゆっくりと、破り始めようとした。

ビリ、という、乾いた、決定的な音。


「やめて!」


エイダが、叫んだ。

それは、計算された言葉ではなかった。思考よりも先に、身体が動いていた。彼女は、数歩でアイリーンの元へ駆け寄り、その手首を、強く掴んだ。

アイリーンの、細く、しなやかな手首。その肌の、驚くほどの柔らかさと、熱さが、エイダの冷たい指先に、電流のように伝わってきた。

初めて、彼女に乱暴に触れた。


アイリーンは、驚きに目を見開いた。彼女の手の中で、破れかけた羊皮紙が、かろうじて繋がっている。

「……なぜ、止めるの?」

アイリーンは、エイダの目を真っ直ぐに見つめ、挑発するように囁いた。

「これも、あなたの計算通りなのでしょう? 『計画の遅延は、許容範囲内のコスト』……そう、あなたの機械が判断したんじゃないの?」


エイダの呼吸が、荒くなった。アイリーンの瞳が、あまりに近くにある。その瞳の中に映る、混乱し、怯えている自分自身の顔。

掴んだ手首から伝わってくる、アイリーンの、速く、不規則な脈拍。

それは、彼女たちがヴィクトリア暗号の鍵として同期させていた、あの生命の律動だった。だが、今は、悲鳴を上げていた。


「違う!」

エイダは、再び叫んだ。

「計算なんて、していない! できない!  あなたが関わると、何もかも……!  私の数式は、あなたの前では、ただのインクの染みよ!」


それは、彼女の魂からの、支離滅裂なSOSだった。

論理の神が、初めて、自らの無力さを認めた瞬間。


だが、その言葉さえも、深く傷ついたアイリーンの心には、届かなかった。彼女には、それが、また別の、巧妙な論理のすり替えにしか聞こえなかった。

彼女は、エイダの手を、力強く振り払った。


「……もう、あなたの言葉は、何も信じられない」


そう言い残し、アイリーンは、破れかけた羊皮紙をテーブルに投げ捨てると、部屋の隅にある、彼女の私物がおかれた長椅子へと歩き、そこに崩れるように身を投げ出した。そして、壁の方へと身体を向け、毛布を頭まで引き被り、完全に自分の殻に閉じこもってしまった。


部屋には、再び、静寂が戻った。

だが、それは、先程までの真空の静寂とは違う。そこには、拒絶と、絶望と、そして、修復不可能なまでに砕け散ってしまった、二人の心の残骸が、満ちていた。


エイダは、振り払われた右手を、胸の前で握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。

アイリーンの手首の、信じられないほどの熱が、まだ、彼女の指先に、幻のように残っている。

彼女は、ゆっくりと、沈黙したままの解析機関へと目を向けた。

システムは、停止している。

そして、そのシステムの、最も重要で、最も美しい部品であったはずのアイリーンもまた、完全に機能を停止してしまった。


どうすれば、再起動できる?

どんなコマンドを打てば、彼女の心は、再び、自分と同期してくれる?


答えは、どこにもなかった。

エイダ・ラブレスは、その夜初めて、人間の心が決して計算できない、恐ろしく、そして美しいものであることを、骨身に沁みて理解した。


そして、その理解は、彼女に、 абсолютная(アブソリュートナヤ)―――絶対的な、孤独をもたらした。

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