第13話 支配と自由の境界
ヴィクトリア暗号が、二人の魂を鍵として稼働を始めてから、ひと月が経った。
その間、ロンドンという巨大な劇場では、幾つかの不可解な劇が、見えざる演出家の手によって、静かに、しかし確実に上演されていた。
インドとの貿易航路の利権を巡って、議会で対立していた二人の政治家が、同時に、しかし全く別のスキャンダルによって失脚した。その結果、最も合理的で、最も人道的な法案だけが、まるで自然の摂理であるかのように可決された。
貧民街で流行の兆しを見せていたコレラの蔓延は、原因不明の汚染源が「偶然」発見され、上水道が整備されることで、最小限の被害に食い止められた。その裏で、土地の買い占めを狙っていた悪徳不動産王が、脱税の証拠を匿名で密告され、破産したことなど、誰も知らない。
ブルームズベリーの隠れ家。その壁には、今や巨大なロンドンの地図が広げられ、そこには、無数の点と線が、色分けされたインクでびっしりと書き込まれていた。それは、もはや単なる地図ではなかった。都市の神経網と血管を可視化した、生命の設計図。そして、二人の意志が、どこに、どのように介入したかを示す、神のカルテだった。
アイリーンは、その地図の前に立ち、腕を組んで、複雑な表情でその成果を眺めていた。彼女の指先には、今朝の新聞が握られている。そこには、彼女たちが仕掛けた結果が、乾いた活字となって印刷されていた。
「……まるで、奇跡のようだわ」
彼女の呟きは、賞賛というよりも、どこか畏怖に満ちていた。
「病は癒え、悪は裁かれ、愚者は退場していく。まるで、出来の悪い芝居の脚本を、有能な作家が書き直しているみたい」
その声に応える者はいない。部屋の主であるエイダは、解析機関の前に座り、機械が吐き出す膨大なデータを、一心不乱に検分していた。カシャ、カシャ、と穿孔カードが読み込まれるリズミカルな音だけが、アイリーンの言葉に相槌を打っているかのようだった。
アイリーンは、ゆっくりとエイダの元へ歩み寄った。
「ねえ、エイダ」
「……なあに、アイリーン?」エイダは、視線をデータから逸らさない。
「わたくしたちは、世界を支配したいのかしら?」
その問いは、あまりに根源的で、あまりに唐突だった。
エイダの指が、初めて止まった。彼女は、ゆっくりと顔を上げ、その灰色の瞳で、アイリーンを見つめ返した。その瞳には、何の感情も浮かんでいないように見えた。
「定義が曖昧だと思う。『支配』とは何を指すの?」
「言葉遊びはやめてちょうだい」
アイリーンの声に、苛立ちが混じった。
「わたくしたちは今、人の運命を、指先一つで変えている。株価を操り、情報を捻じ曲げ、社会の歯車を、わたくしたちの望む方向へ動かしている。これは、かつて王侯貴族が握っていた権力よりも、もっと絶対的で、もっと恐ろしい力よ。わたくしは、ただ、それを自覚しているのかと聞いているの」
エイダは、しばらく黙考した後、静かに椅子から立ち上がった。そして、アイリーンの隣に立ち、同じように壁の地図を見上げた。
「支配、じゃないと思う」
エイダは首を振った。その声は、数学の公理を述べるかのように、平らで揺るぎなかった。
「これはただの修復。最適化と言ってもいいかも」
「修復? 最適化?」
「そう」
エイダは、地図上の一点を指差した。
「見て、アイリーン。この世界は、非効率で、欠陥だらけ。貪欲、偏見、無知といった、質の悪いプログラム(バグ)のせいで、富は偏り、病は蔓延し、無用な争いが繰り返される。システム全体が、常にクラッシュ寸前の状態で動いている。私たちは、そのバグを取り除き、リソースの配分を最適化し、システム全体の安定性を高めているだけ」
彼女の言葉は、冷徹で、非人間的で、しかし、恐ろしいほどの説得力を持っていた。
「私たちは、世界を支配したいわけじゃないよ。お金持ちになったり、権力を握りたいわけでもない。世界の非合理性を最適化し、必要な自由を設計するだけ。だって病に苦しむ自由、貧困に喘ぐ自由なんて、誰にも必要ないでしょ?」
アイリーンは、反論の言葉を見つけられなかった。エイダの言うことは、正しい。あまりに、正しすぎた。だが、その完璧な正しさの中に、何か、人間として決して踏み越えてはならない一線が、含まれているような気がしてならなかった。
「でも、誰がその権利を、わたくしたち与えたの?」
アイリーンの声が、震えた。
「誰が、わたくしたちに、善と悪を、必要と不要を、判断する権限をくれたというの? あなたの言う『最適化』の過程で、誰かが傷つき、人生を壊されている。その痛みは、あなたの数式には現れないわ」
「痛みは、システムの移行期に発生する、避けられないコストだと思う」
エイダは、淡々と答えた。
「外科手術に痛みが伴わないことがある? でもその一時的な痛みを受け入れることで、必要な手術をすることで、身体全体が救われるの。私たちがやっていることは、きっとそれと同じ。それから権利について言うなら……」
彼女は、アイリーンの方へと向き直った。その瞳の奥に初めて激しい光が宿った。
「……権利は、与えられるものではないと思う。行使するもの。この欠陥だらけの世界の構造を理解し、それを修復する能力を持つ者が、私たち以外にいる? 部分的に声をあげている人はいるわ。でも全体を見て最適化できる人は、どう? いないと思う。問題の在処も解決の方法も知っているのに、何もしないことは能力の放棄。それこそが最大の罪だと思う」
二人の視線が、火花を散らすように、空中で交錯した。
一人は、その力の人間的な意味と、その代償に苦悩する。
もう一人は、その力の数学的な正しさと、その行使の義務を信じている。
長い沈黙の後、アイリーンの肩から、ふっと力が抜けた。彼女は、自嘲するように、小さく笑った。
「……そう。あなたは、いつも正しいわね。わたくしは、時々、怖くなるの。この力が、わたくしたち自身を飲み込んで、怪物に変えてしまうのではないかと」
「怪物にはならないわ」
エイダは、静かに言った。
「だって私たちの目的は、世界を永遠に支配し続けることではないもの」
「……じゃあ、何なの?」
エイダは、再び地図へと目を戻した。彼女の視線は、ロンドンの街を越え、もっと遠い、まだ存在しない未来を見ているかのようだった。
「私たちの最終目的は手を離すこと。私たちが、もはや介入する必要のない、自律的で、安定したシステムを構築すること。そして、そのシステムが完成した時……」
エイダは、アイリーンを見つめた。
その瞳には初めて、戸惑いと、そしてほとんど祈りに近い、密かな願いの色が浮かんでいた。
「……その時こそ、私たちも、初めて本当の自由を手に入れる。誰にも、何にも縛られずただ、あなたと私、二人でいられる自由を。この束の間の支配は、その自由を手に入れるための、ただの手段なの」
その言葉は、アイリーンの心の、最も柔らかな場所に、静かに、しかし深く、突き刺さった。
そうだった。すべての始まりは、それだった。
社会の抑圧からも、世界の不条理からも逃れ、互いの知性だけを頼りに、二人だけで生きていける世界を創る。そのために最初、アイリーンはエイダに声をかけた。そのための、革命だったのだ。
アイリーンは、そっとエイダの手に、自分の手を重ねた。
エイダの肌は、相変わらずひんやりとしていたが、その奥に確かな熱が脈打っているのを、彼女は感じた。
「……そうね。わたくしたちの、二人だけの自由。それなら、少しだけ、怪物になるのも悪くないかもしれないわ」
二人は、何も言わずに、壁の地図を見つめ続けた。
それは、もはや、ただの支配の設計図ではなかった。
二つの孤独な魂が、自分たちのための聖域(サンクチュアリ)を、この混沌とした世界の中に、一から築き上げるための、約束の設計図だった。
解析機関の駆動音が、まるで同意するかのように、静かに、そして力強く、部屋に響いていた。
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