第11話 満月の更新

その夜、ロンドンの霧は嘘のように晴れ渡り、満月が、まるで磨き上げられた銀貨のように、夜空に高く懸かっていた。

その冷たい光は、ブルームズベリーの隠れ家の天窓から、液化した論理の奔流のように降り注ぎ、部屋の中央に鎮座する解析機関を青白く照らし出していた。機械の真鍮の歯車や鋼のレバーが、まるで古代遺跡の祭壇のように、厳粛な輝きを放っている。


今宵は、14夜に一度訪れる、ヴィクトリア暗号の鍵を更新する最初の儀式の夜だった。


部屋の空気は、張り詰め、澄み渡っていた。エイダとアイリーンは、解析機関の前、向かい合うように置かれた二つの椅子に、静かに腰を下ろしていた。彼女たちの間には、黒檀の小さなテーブルが置かれ、その上にはビロードの布が敷かれている。布の上には、二本の銀の音叉と、それに繋がる計測装置が、まるでこれから行われる神聖な儀式のための祭具のように、整然と並べられていた。


エイダは、月光を浴びて、いつも以上に非人間的な美しさを湛えていた。彼女は、これから行われる手順を、まるで教会の司祭が祈りの言葉を唱えるように、静かに、しかし明瞭な声で説明した。


「これより、暗号鍵の更新シーケンスに移行します。手順は、前回のテストと同じ。でも今夜は、あなたの感情データを、より深く、より根源的なレベルでシステムに統合するわ。でも怖がらないで。あなたが何を感じようと、それはシステムにとって善でも悪でもない。ただの純粋なエネルギーだから」

「まるで、魂の重さを量るみたいね」

アイリーンは、虚勢とも本心ともつかない微笑みを浮かべて答えた。彼女は、あの日以来、この瞬間が来ることを、期待と、それと同じくらいの恐怖と共に待ち望んでいた。自分の内面の混沌を、この論理の化身に、そして他ならぬエイダの機械に、完全に明け渡す。それは、舞台の上で裸になるよりも、ずっと無防備で、恐ろしい行為だった。


「魂に重さがあるとしたら、それは情報量で定義されるでしょうね」

エイダは、アイリーンの比喩を、こともなげに数式へと翻訳した。

「さあ、始めましょう。手を」


アイリーンは、覚悟を決めたように、ゆっくりと自分の左手をテーブルの上に差し出した。エイダは、その手を取り、慣れた手つきで、銀のクリップを彼女の指先に装着し、音叉の冷たい柄を手首の脈の上に当てた。その瞬間、アイリーンは、自分の心臓が大きく跳ねるのを感じた。それは、恐怖か、興奮か、あるいはその両方か、自分でも分からなかった。


エイダもまた、自分自身の手に装置を取り付けた。そして、解析機関に接続された黒曜石のスクリーンに、再び二人の魂の波形が、二条の光の軌跡となって描き出された。

今夜の波形は、どちらも落ち着かなかった。アイリーンの波は、細かく震え、さざ波立っている。そして、驚くべきことに、エイダの波もまた、普段の機械的な規則性を失い、微かな揺らぎを見せていた。


「乱れているわ、あなたの波も」

アイリーンが、かすれた声で指摘した。

「……うん。あなたの不安という変数が、私のシステムにもフィードバックされているの。観測者が、観測対象に影響を与え、そして、与え返されている。完璧な相互作用」

エイダの声は冷静だった。しかしその瞳は、スクリーンに映る二つの乱れた波形を、熱心な天文学者が新星の誕生を観察するかのように、食い入るように見つめ、潤んでいた。


「目を閉じて」エイダが、静かに命じた。


アイリーンは、言われた通りに瞼を下ろした。暗闇の中で、五感が鋭敏になる。指先に付けられたクリップの冷たさ。手首に伝わる、自分の生命の、必死な鼓動。そして、目の前にいるエイダの、静かだが、確かに存在する呼吸の音。


「どうすればいいの? 前回のように、ただ、お互いを感じればいいの?」

「ううん、それでは足りないと思う」

エイダの声が、暗闇の中から響いてきた。

「ただ感じるだけでは表面を撫でるだけ。今夜は、もっと深く潜りましょう。あなたの記憶の中に。私の論理の中に。相手の最も深い場所に、自分の意識を送り込むの」


それは、あまりに抽象的で、あまりに危険な要求だった。だが、アイリーンは、もう後戻りできないことを知っていた。彼女は、意識を集中させた。社交界の華やかな仮面を一枚ずつ剥がし、その下にある孤独を、不安を、そして、エイダと出会う前の、空虚だった日々を、心のスクリーンに映し出した。


その瞬間、彼女の心拍の波形が、激しく乱れた。スクリーン上で、光の軌跡が嵐のように荒れ狂う。

それに呼応するように、エイダの波形もまた、安定を失った。アイリーンの感情の嵐が、彼女の論理の防壁を揺さぶる。


「……アイリーン、あなたの過去のデータは、ノイズが大きすぎるわ」

エイダの声に、焦りの色が混じった。同期が、始まらない。

二つの波形は、互いに反発し合い、美しい対旋律を奏でるどころか、耳障りな不協和音を生み出している。解析機関が、警告するかのように、低く唸り始めた。


「無理よ、エイダ……!」

アイリーンの声が、悲鳴のように漏れた。

「わたくしの心の中は、あなたのような美しい数式じゃない。泥と、嘘と、後悔でできた、混沌の沼なのよ!」

「いいえ、それは違う!」


エイダの声が、部屋に響き渡った。それは、いつもの冷静さをかなぐり捨てた、魂の叫びだった。

「あなたの混沌こそが、私の論理が必要としているものなの!  泥の中からしか、蓮の花は咲かない。嘘の中からしか、本当の美しさは生まれない。 私を信じて、アイリーン。私の愛しい人。 あなたの沼に、私の数式を沈めて!」


その言葉は、どんな愛の囁きよりも、アイリーンの心を強く打った。

彼女は、閉じていた目を見開いた。目の前には、苦悶の表情を浮かべたエイダの顔があった。完璧な論理の神は、今、彼女の混沌を受け入れるために、自らの秩序を破壊しようとしていた。


(……ああ、そうか。わたくしは、この瞬間を恐れていたんじゃない。この瞬間を、ずっと、待ち望んでいたんだ)


アイリーンは、ゆっくりと、反対の手を伸ばし、テーブル越しに、エイダの唇にそっと触れた。

その瞬間、すべてのノイズが消えた。


彼女は、もはや過去の記憶を追うのをやめた。ただ、今、この瞬間、目の前にいるエイダのことだけを思った。彼女の不器用な優しさを。彼女の孤高の知性を。そして、自分の存在が、彼女の完璧な世界を乱し、そして、完成させるという、奇跡のような事実を。


すると、スクリーン上の、荒れ狂っていた二つの波形が、まるで嵐の後の凪のように、急速に静まっていった。そして、以前よりも、ずっと深く、ずっと滑らかに、互いに寄り添い、絡み合い、一つの完璧な波形へと、融合していった。

それは、二つの川が合流し、一つの大河となって海へ注ぐような、荘厳で、抗いがたい流れだった。


「……同期、完了。暗号鍵、生成……更新、実行」

エイダが、恍惚とした声で呟いた。


その言葉を合図に、沈黙していた解析機関が、静かに、しかし力強く、その鼓動を再開した。新しい生命を吹き込まれたかのように、歯車が滑らかに回転し、レバーが規則正しく上下する。

ヴィクトリア暗号の鍵は、更新された。

今この瞬間から、世界の情報の流れを支配する鍵は、二人の魂が溶け合った、この一瞬の記憶そのものとなったのだ。


儀式が終わり、エイダがそっと装置を外すと、アイリーンは、深い疲労感と共に、エイダにぐったりと身を預けた。だが、その心は、不思議なほどの静けさと、満ち足りた感覚に包まれていた。


静寂の中、二人の心音だけが、部屋の空気を優しく震わせている。それは、もはや別々の音ではなかった。同じリズムを刻む、一つの心臓の音だった。

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