第10話 理性と官能
その夜、隠れ家はインクと蝋の匂いに満たされ、世界から切り離された思考の聖域と化していた。
外では、ロンドンの霧が街の輪郭を溶かし、すべての音を吸い込んでいる。
だが、この部屋の中だけは、一つの知性がもう一つの知性を探求する、静かで、しかし熱を帯びた音が響いていた。羽根ペンが羊皮紙を掻く、乾いた音。解析機関の心臓部から聞こえる、規則正しい駆動音。そして、二人の天才が交わす、囁きのような会話。
彼女たちは、ヴィクトリア暗号の核心―――心拍の揺らぎから生成される鍵の、さらなる洗練について議論していた。それは、この世界の秩序を書き換えるための、神の設計図を検分する作業だった。
「問題は、周期性だと思う」
エイダが、その細い指で羊皮紙に描かれた複雑な波形をなぞりながら言った。彼女の横顔は、蝋燭の揺れる光に照らされ、まるで象牙の彫刻のように、硬質で、完璧な美しさをたたえていた。
「人間の心拍は、カオス理論に従う。一見、不規則に見えても、その奥には必ず引き寄せる因子(アトラクタ)が存在する。長期間のデータを収集すれば、いずれそのパターンは近似され、未来の鍵が予測されるリスクが生じてしまうの」
エイダの言葉は、まるで精密な機械部品が噛み合うように、淀みなく紡がれる。
アイリーンは、その言葉の意味を完全に理解しているわけではなかった。カオス、アトラクタ―――それは彼女の住む世界とは異なる言語。だが、彼女は、その言葉を紡ぐエイダの姿から、目を離すことができなかった。
数式を語るエイダは、変容していた。
普段の、どこか世間とずれた不器用な天才ではなく、世界の法則そのものを指先で操る、絶対的な支配者の顔をしていた。羊皮紙の上を滑る彼女の指が描く、インテグラルやシグマの記号。無機質であるはずのそれらの記号が、アイリーンの目には、これまで見たどんな舞踏よりも優雅で、どんな宝飾品よりも官能的な曲線に見えた。
(……美しい)
アイリーンは、心の内でため息をついた。
彼女は、これまで数えきれないほどの男たちを、その美貌と才気で虜にしてきた。彼らの瞳に映る欲望の色を、彼女は知り尽くしている。だが、今、彼女がエイダに感じているこの感情は、そのどれとも似ていなかった。
それは、肉欲や支配欲といった、手触りのある感情ではない。もっと純粋で、もっと抽象的で、それゆえに、もっと抗いがたい、魂の渇きのようなものだった。エイダの知性そのものに、触れたい。その思考の奔流に、身を浸したい。
「……だから、もう一つの変数を加える必要があるわ」
エイダは、議論を続けた。
「完全に非同期で、予測不能な、もう一つの乱数発生源を」
「どこから持ってくるというの?」
アイリーンが、夢見るような声で問うと、エイダは初めて顔を上げ、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「あなたよ、アイリーン」
その灰色の瞳は、宇宙の深淵のように、すべてを吸い込んでしまいそうな力を持っていた。
「正確には、あなたの『嘘』」
「……わたくしの、嘘?」
「ええ」
エイダは頷いた。
「あなたが嘘をつく時、その瞳、声のトーン、呼吸のリズム、そして心拍に、真実を語る時とは異なる、微細な不協和音(ディスコード)が生じてる。それは、論理的には説明不能な、純粋な『創造』だと思う。即興で、無から有を生み出す行為。それを、第二の鍵として、私の数式に掛け合わせたいの」
アイリーンは、絶句した。自分の最も暗く、最も深い聖域である「嘘」を、この女は、自分の最高傑作である、あの美しい数式の一部として組み込もうとしている。
それはアイリーンにとって、最大の冒涜であり、同時に、究極の理解でもあった。
「あなたが教えてくれた。完璧な論理は、時として脆い。でもそこに、完璧な嘘が重ね合わされたら? 真実と嘘が、互いを補強し合い、決して解読不可能な螺旋構造を作り出せないかな? あなたの嘘は、私の理論を完成させる、最後の女神(ミューズ)だと思う」
エイダは、興奮に頬を紅潮させていた。
彼女は、アイリーンの感情の機微を、まるで新しい暗号を解読するように、夢中になって分析していた。エイダにとって、アイリーンの存在そのものが、この世で最も難解で、最も美しいテクストだった。その瞳の揺らぎに隠された意味は何? その声の震えが示す感情のベクトルは? その指が指しているのは本当はなんなの?
エイダは、恋に落ちた男が相手の一挙手一投足から愛の言葉を探すように、アイリーンという現象から、世界の真理を読み解こうとしていた。男たちとはまるで違ったやり方で。
アイリーンは、ゆっくりと立ち上がり、エイダの隣に立った。そして、羊皮紙の上に広がる、美しい数式の森を、上から覗き込んだ。
「あなたの言葉は、氷の結晶みたいね」
彼女は、吐息のように囁いた。
「完璧で、冷たくて、そして……触れたら溶けてしまいそうに、美しいわ」
「あなたの言葉は、熱力学第二法則に反しているわ」
エイダは、顔を上げずに答えた。
「何もないところから、感情という名の無秩序(エントロピー)を生み出す。それは、物理法則に対する反逆」
「感情が無秩序に見えるとしたら、あなたの理論かあなたの頭に欠陥があるのよ。……こんなに分かりやすいのに」
二人の会話は、もはや暗号理論の議論ではなかった。それは、論理と感情が、互いの領域に踏み込み、互いの言語で、互いの存在を定義し合う、魂の交歓だった。
二つの思考は、完全に共鳴し、高め合い、一つの高みへと登りつめていく。
視線が、絡み合った。
蝋燭の炎が、ゆらりと揺れた。
部屋の空気が、張り詰めた弦のように震える。
言葉が、途切れた。
静寂。
解析機関の駆動音だけが、まるで二人の高鳴る心臓の代弁者のように、チ、チ、チ……と、時を刻んでいた。
エイダの瞳の中に、アイリーンは、自分自身の姿が映っているのを見た。そして、その奥に、これまで誰にも見せたことのない、純粋な探究心と、畏敬の念が燃えているのを見た。
アイリーンの瞳の中に、エイダは、自分が構築した論理の世界が、美しく乱反射しているのを見た。そして、その奥に、自分の孤独な魂を、そのまま受け入れてくれる、深い湖のような優しさがあるのを見た。
それは、まだ名前のない感情だった。
友情よりも深く、共犯関係よりも純粋で、恋と呼ぶには、あまりに静かで知的すぎた。
『
もし、その感情に名を付けるとしたら、きっとそう呼ぶのだろう。
長い、永遠にも思える沈黙の後、アイリーンが、その均衡を破った。彼女は、エイダの頬に、そっと触れた。触れるか、触れないか、そのギリギリの距離で。
「……あなたの数式は、どんな詩よりも官能的ね、エイダ」
エイダは、答えられなかった。
彼女はただ、アイリーンの指先が放つ微かな熱と、その瞳から注がれる、計算不能な情報量の前に、完全に沈黙することしかできなかった。
だが、部屋の隅に置かれた、二人の心拍を監視する計測装置のスクリーンには、くっきりと、その変化が刻まれていた。
それまで機械のように正確なリズムを保っていたエイダの光の波形が、その瞬間、初めて、大きく、そして美しく、乱れた。
それは、彼女の完璧な世界に、アイリーンという名の「誤差項」が、完全な形で受け入れられた瞬間だった。
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