第7話 音叉と同期
光学電信塔を巡る小さな勝利から数日。
ブルームズベリーの隠れ家には、奇妙な静けさが満ちていた。それは、成功の後の安堵ではなく、より巨大な問いの前に佇む、嵐の前の静寂だった。解析機関は沈黙し、まるで次の命令を待つ巨大な獣のように、部屋の中央にうずくまっていた。
アイリーンは、窓辺の長椅子に身を横たえ、一冊の詩集を漫然と眺めていた。
だが、その瞳は活字の上を滑るだけで、言葉は少しも心に届いていなかった。彼女の意識は、隣の部屋で、数時間も機械の設計図に没頭している、もう一人の共犯者の少女に向けられていた。
やがて、その静寂を破って、エイダが姿を現した。
その顔は、常にも増して血の気がなく、瞳の奥には徹夜の疲労と、それを凌駕する狂信的な光が宿っていた。彼女の手には、ビロードのケースに収められた、二本の銀製の音叉があった。
「うまくいったじゃない、エイダ。あの商会、まんまと罠にかかってくれたわ。私たちの最初の獲物よ」
アイリーンは、努めて明るい声で言った。だが、エイダの表情は硬いままだった。
「成功じゃない。ただの実験だよ」
エイダは、アイリーンの言葉を、まるで興味がないかのように切り捨てた。
「そして実験の結果、システムの致命的な脆弱性が明らかになった」
「脆弱性ですって? どこにそんなものが?」
「暗号よ」
エイダは、ビロードのケースをテーブルの上に置いた。重厚で、冷たい音が響く。
「私たちが使った置換暗号は単純すぎるの。いずれ、ホームズのような人間が現れれば、そのパターンは必ず読み解かれる。外部から解読可能な暗号鍵は、鍵とは呼べないわ。それは、いずれ開けられることを待っている錠前に過ぎない」
彼女の言葉は、次第に熱を帯びていた。
それは、完璧な論理体系に一点の瑕疵も許さない、求道者の祈りのようだった。
「では、どうするの? もっと複雑な、誰も解けない暗号を作るというの?」
「その通り」
エイダは頷いた。
「外部から観測も再現も予測も不可能な、究極の鍵を作るしかない。そのための設計は……今、終わった」
彼女はそう言うと、ビロードのケースを開いた。中には、二本の音叉が、まるで外科手術用の器具のように、静かに横たわっていた。その柄の部分からは、絹で覆われた極細の銅線が伸び、小さな銀のクリップに繋がっている。
「これは……?」
アイリーンの声に、微かな不安が混じった。
エイダは、そのうちの一本を、まるで聖遺物に触れるかのように、そっと取り出した。
「究極の暗号鍵は、完璧な乱数から作らなくてはならないの。そして、この世で最も複雑で、予測不可能な乱数を生成するもの……それは、生命そのものよ。具体的に言えば、人間の心拍変動(HRV)。心臓の鼓動と鼓動の間の、マイクロ秒単位の不規則な揺らぎ」
アイリーンは、息を飲んだ。エイダが何を言わんとしているのか、その常軌を逸した論理の飛躍を、彼女の直感は瞬時に理解していた。
「つまり……わたくしたちの心臓の音を、鍵にするというの?」
「音じゃない。その裏にある、生命の数学よ」
エイダは訂正した。
「あなたが恐怖を感じる時、喜びを感じる時、嘘をつく時……その微細な感情の揺らぎが、心拍の間隔を不規則に変動させる。それは、どんな数学者にも予測不可能な、指紋より確実な、あなただけの署名なの。この音叉は、その振動を拾って、電気信号に変換する装置。そして、このクリップを……」
エイダは、自分の指先をアイリーンに示した。
「……指先に繋ぐ。皮膚抵抗と脈拍を、同時に計測するため。そして、私たち二人の心拍変動をリアルタイムで掛け合わせることで、毎秒、新しい暗号鍵を生成し続ける。それが私たちの『ヴィクトリア暗号』の最終的な基礎となる」
アイリーンの表情から、いつもの余裕が消えていた。
彼女の武器は、常に他人を操ることであり、自分の内面は決して見せない、厚いヴェールに覆われた聖域だった。
だが、エイダの提案は、その聖域に、冷たい機械のメスを突き立てるに等しかった。
「待って、エイダ」
彼女の声は、微かに震えていた。
「それは、つまり……わたくしの心が、あなたの機械の部品になるということ?」
「部品じゃない」
エイダは、静かに首を振った。
「鍵そのものだよ、アイリーン。あなたと私の感情の波―――その最もプライベートで混沌とした部分こそが、この世界の扉を開閉する唯一無二の鍵になるの」
「……支配しているのかしら、それとも、支配されているのかしら」
アイリーンは、自分に問いかけるように呟いた。
「わたくしの嘘も、恐怖も、愛も……すべてが、あなたと、あなたの機械に筒抜けになるということなの?」
その問いは、エイダの論理の世界には存在しないものだった。彼女は、少しだけ戸惑ったように目を伏せ、そして、再びアイリーンを見つめた。
「私は……、あなたの心を覗き見たいわけじゃないの。ただ、その力を借りたいだけ。あなたの感情は、私にとってノイズじゃない、音楽なんだわ。その複雑で、予測不能な旋律だけが、この機械を目覚めさせる聖句になる。これは、支配ではないわ。私たちのどちらか一方が欠ければ、システムは停止する。これは……対称の束縛だと思う」
『対称の束縛』。
その言葉は、まるで美しい数式のように、アイリーンの心の壁に染み込んでいった。支配でもなく、依存でもない。対等で、互いを必要とし、そして、決して逃れることのできない、共犯者たちのための契約。
(これまで殿方には何度も指輪や宝石をもらったけれど、この女は、世界そのものを
アイリーンは、長い沈黙の後、ゆっくりと息を吐いた。彼女は、長椅子から身を起こし、テーブルの前に座った。
そして、エイダに向かって、そっと自分の左手を差し出した。それは、降伏の印であり、同時に、すべてを委ねるという絶対的な信頼の証だった。
「……試してみなさい。わたくしの心が、あなたの数式に耐えられるかどうか」
エイダの瞳に、一瞬だけ、人間的な安堵の色が浮かんだ。
彼女は無言で頷くと、アイリーンの向かいに座り、その差し出された左手を取った。エイダの指先は、いつも通り、ひんやりとしていた。
エイダは、銀のクリップを、アイリーンの人差し指に、そっと装着した。冷たい金属が肌に触れる感覚に、アイリーンの身体が微かにこわばる。
次に、エイダは音叉の柄を、アイリーンの手首、脈打つその真上に、静かに押し当てた。
トクン、トクン……。
アイリーンの心音が、銀の音叉を通じて、微かな振動としてエイダの指先に伝わってくる。それは、今まで彼女が扱ってきたどのデータよりも、生々しく、温かい情報だった。
エイダは、自分自身の指にも同じ装置を取り付けた。そして、解析機関に接続された計測装置のスイッチを入れる。ガラス管の中の液体が淡い光を放ち、スクリーンに似た磨かれた黒曜石の板の上に、二条の光の波形が現れた。
一つは、アイリーンの心拍。速く、不規則で、まるで感情そのものが描く曲線のようだ。
もう一つは、エイダの心拍。遅く、規則正しく、機械のように正確なリズムを刻んでいる。
二つの波形は、互いに交わることなく、平行に走り続ける。
「……共鳴しないね」
エイダが呟いた。
「どうすればいいの?」
「意識を集中して。私の脈拍を、あなたの脈拍を。ただ、感じて」
アイリーンは、目を閉じた。意識を、手首に当てられた音叉の冷たさと、そこから伝わる自分の生命の律動に集中させる。そして、目の前にいるエイダの存在を、その静かな呼吸を、冷たい指先の感触を、全身で感じようと試みた。
すると、奇跡が起きた。
それまで全く別のリズムを刻んでいた二つの波形が、まるで互いに引き寄せられるように、その周期を合わせ始めたのだ。アイリーンの波の頂点が、エイダの波の谷間に寄り添い、エイダの波の頂点が、アイリーンの波の揺らぎを支える。それは、まるで二つの孤独な旋律が、初めて出会い、完璧な対旋律(カウンターポイント)を奏で始めたかのようだった。
「……同期、開始」
エイダの声が、夢の中のように遠く聞こえた。
アイリーンは、目を開けた。黒曜石のスクリーンに映る、美しく絡み合う二つの光の波。それは、自分とエイダの魂が、可視化された姿のように思えた。もはや、どちらが自分で、どちらが彼女なのか、境界線は曖昧になっていた。
それは、後戻りのできない、魂の契約だった。
ヴィクトリア暗号の真の心臓が、この夜、初めて鼓動を始めた。そして、その鼓動は、二人の天才の心拍そのものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます