第6話 最初の歯車

その日、エイダ・ラブレスの隠れ家は、解剖室のような緊張感と、時計職人の工房のような精密さに満ちていた。

彼女は、解析機関の巨体に、新たな神経線維を接続する、繊細な外科手術の真っ最中だった。彼女の指先が、銅線の束と真鍮の端子を寸分の狂いなく結びつけていく。その視線の先にあるのは、ロンドン南東部、グリニッジの丘に立つ、一本の時代遅れの塔の設計図だった。


光学電信塔(セマフォア・タワー)。

腕木の角度の組み合わせで、視覚的に情報を伝達する、前時代の遺物。電磁式の電信網が帝国中に張り巡らされた今、そのほとんどは使われなくなり、ただ空に向かって両腕を広げたまま風雨に晒される、鉄の骸骨と化していた。

だが、一部の民間企業は、その維持費の安さから、今もなお近距離の特定ルートでこの旧式システムを使い続けていた。警備は甘く、技術は単純。ゆえに、それは二人の最初の実験台として、あまりに魅力的だった。


「入力信号を、機械的な腕木の運動エネルギーに変換する、単純な置換暗号。でも、その単純さこそが介入の隙を生む」


エイダは、誰に言うでもなく呟いた。彼女の瞳には、もはや鉄の塔ではなく、ロンドンという巨大な身体にメスを入れるための、最初の切開点が見えていた。


その頃、シティの片隅にある喫茶店では、アイリーン・アドラーが、そのメスが滑らかに入るよう、患部に麻酔をかける作業に取り掛かっていた。

彼女の向かいに座っているのは、ターゲットである『英国海峡電信社』の主任技師、アーサー・プリチャード。

くたびれたツイードのジャケットに、度の強い眼鏡。紅茶のカップを持つ指はインクで汚れ、その背中は長年のデスクワークで丸まっている。彼は、アイリーンという太陽を前にした、哀れな蝋の翼のようだった。


「……信じられません、アドラー様。この『ペルーからの逆刷りエラー切手』は、現存するものが世界に三枚しか確認されていない、幻の逸品です。これを、本当に私が鑑定してよろしいのですか?」


プリチャードの声は、興奮と恐縮で震えていた。

アイリーンは、憂いを帯びた微笑みを浮かべ、そっとため息をついた。

「ええ。亡き父が、唯一わたくしに残してくれたものでして……。でも、わたくしには、この小さな紙片の価値がとんと分からないのです。プリチャード様のような専門家のお知恵を拝借できなければ、きっと無下に扱ってしまうことでしょう」


彼女の言葉は、彼の孤独な情熱を的確に射抜いた。自分の価値を、この世界の誰よりも理解してくれる、美しき依頼人。プリチャードの心は、すでにアイリーンの手の中で、柔らかな粘土と化していた。


「この切手が発行されたのは1858年。当時、リマの印刷局で……」


彼は、堰を切ったように専門知識を語り始める。アイリーンは、心底興味深そうな相槌を打ちながら、その実、彼の言葉の背景にあるものを観察していた。承認欲求、社会からの疎外感、ささやかな趣味にすがることで保たれる自尊心。それら全てが、これから彼女が操るべき、操り人形の糸だった。



その夜。隠れ家の窓から、遠くグリニッジの丘のシルエットが、インクを滲ませたように浮かび上がっていた。エイダは解析機関の前に座り、その瞳は機械の計器に注がれている。その隣で、アイリーンは静かに、獲物を待つ豹のように佇んでいた。


「プリチャードは、もう塔に着いた頃よ。今夜の深夜点検は、彼一人の担当。わたくしに良いところを見せようと、張り切っていたわ」


アイリーンの声は、何の感情も含まない、ただの事実報告だった。


「彼の心拍は、おそらく通常時より30%は上昇しているでしょうね。恋という感情は、人体のリソースを著しく非効率に消費させるから」


エイダは、計器から目を離さずに応じた。だが、その声には、微かな、しかし確かな高揚感が滲んでいた。


アイリーンが、合図の懐中時計を開く。長針が、約束の時刻を指した。

「……今よ、エイダ」


その言葉と同時に、エイダは主制御レバーを押し込んだ。

ガシャン!

解析機関の心臓部で、重い歯車が噛み合う音が響いた。それは、計画の始まりを告げる、産声だった。


遠く離れたグリニッジの電信塔。その最上階で、アーサー・プリチャードは、ランタンの灯りを頼りに、アイリーンに指示された通り、主回線と腕木を繋ぐ接続桿を、数分間だけ手動で切り離していた。「古い友人と、光で少しだけ思い出の遊びをしたいの」という、あまりに突飛で、しかしロマンチックな彼女の嘘を、彼は純真に信じきっていた。


その、システムに生まれた、ほんの数分間の空白。

その刹那を、エイダの機械は見逃さなかった。ブルームズベリーの隠れ家から放たれた不可視の信号が、地下の未使用のガス管を伝い、電信塔の制御盤に侵入する。


「接続を確認。制御権、掌握」

エイダが、短く告げた。


二人の目的は、ささやかな嘘を夜空に刻むこと。

フランスからの高級絹織物を積んだ貨物船が、「ドーバー沖の濃霧で足止めされ、到着が半日遅れる」という偽情報。

それを受信したライバル商会は、明朝の取引に間に合わないと判断し、手持ちの在庫を安値で手放すだろう。その瞬間を、二人が裏で手を結んだ新興の商社が狙い撃つ。


エイダの指が、穿孔カードの束を機械に挿入した。それは、偽りの情報を腕木の角度に変換するための、短い命令文(プログラム)。

機械が、再び唸りを上げた。歯車が回転し、レバーが動き、遠く離れた鉄の巨人の神経を直接支配する。


隠れ家の窓辺に立った二人は、暗闇の中、遠くの丘を凝視した。すると、それまで夜空を背景に静止していた電信塔の腕木が、ギ、ギギ……と、まるで錆びついた関節を動かすように、ゆっくりと角度を変え始めた。


―――『濃霧』

―――『停船』

――-『遅延』


ぎこちなく、しかし確実に、偽りのメッセージが夜空に刻まれていく。それは、まるで巨大な骸骨が、死後の世界から不吉な神託を告げているかのようだった。その光景は、どこか冒涜的で、それでいて、倒錯的なまでに美しかった。偽りの情報が、次の塔へ、そのまた次の塔へと、光の速さで伝播していく。


エイダは、自分の指先が微かに痺れているのを感じた。数式が、思考が、初めて現実世界を、物理の法則を捻じ曲げて書き換えた。それは、神にしか許されないはずの、創造の喜びに似ていた。


隣のアイリーンは、そのエイダの横顔を、うっとりと見つめていた。計器の光に照らされた彼女の白い頬。世界を再構築する数式に没頭する、その孤高の精神。

アイリーンはそこに、どんな宝石にも勝る絶対的な美しさを見出していた。


「聞こえるかしら、エイダ」

アイリーンが、吐息のように囁いた。

「……何?」

「世界が、私たちの思い通りに軋む音よ。最初の歯車が、確かに噛み合った音」


エイダは、ゆっくりとアイリーンの方を振り返った。

そして、その唇の端に、ほんのわずかに、しかし紛れもない笑みを浮かべた。

それは、アイリーンが初めてみた、これまでのエイダが決して見せることのなかった、共犯者だけに見せる美しい微笑みだった。


「……うん。とても美しい、不協和音だね」


機械の規則正しい駆動音と、高揚する二つの心音。その三つのリズムが部屋の中で奇妙なハーモニーを奏で始めた。

それは、『レディ・モリアーティ』という名の壮大な交響曲のまだほんの第一楽章、その最初の小さな一音に過ぎなかった。

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