炉心
朝のホームルームが終わるころ、教室の空気は妙に浮いていた。
話題の中心は、もちろん昨日やってきた新入生、柊真白だ。
「なあ、昨日の子、可愛くね?あの新入生の」
「可愛いし愛嬌もあるし最高だよな!運動もできそうだったし、あの子何部に入るんだろ」
「おい上杉、お前先輩って呼ばれてたろ。どんな関係?」
「いや、知らねえって。昨日初めて会った」
口ではそう言いながら、胸の奥がざわつく。
窓の外では、風が校庭の旗を揺らしていた。
春なのに、心のどこかが落ち着かない。
午前の授業は、黒板の文字が上を通り過ぎていくだけだった。
昼休み、食堂へ行く気にもなれず、購買でパンを買って屋上へと続く外階段に腰を下ろす。
静かな時間。そこへ、靴音。
「上杉先輩」
顔を上げると、柊真白が満面の笑みで立っていた。
制服のリボンが風に揺れている。
「ちょっと、時間いいですか?」
断る理由はいくらでもあった。
なのに、口は勝手に「いいけど」と動いていた。
屋上からフェンス越しに見える校庭は、白く光っている。
人気のない空間で、春風の音だけが響いた。
「屋上勝手に入ると怒られるんだよ。先生、来たら困るだろ?」
「来たら走って逃げます。先輩、足速そうですし」
軽口のテンポが、なぜか怖い。
あどけない表情。だけど、笑顔の奥にどこか鋭さが潜んでいる。
「私のこと……思い出しました?」
「……あの路地でのことか?」
「うん。避けましたよね、私の蹴り」
やっぱり覚えていた。
心臓が一拍遅れて鳴る。
「偶然だよ」
「偶然であんな動きはできません。普通じゃないです」
「普通じゃないってなんだよ」
「ん〜、天才?」
笑顔が近い。目が少しだけ真面目。
そのまま柊は一歩前に出る。
「試してみていいですか?」
「……は?」
「軽く当てるだけ。痛くないですよ、多分」
「いや多分って…」
言い終える前に、彼女の足がふわりと浮く。
右の蹴り。インロー。
避けようと意識する前に、体が勝手に反応していた。
膝が引き、靴底が空を切る。
「やっぱり!」
柊が楽しそうに息を弾ませる。
次の瞬間、左足がハイに跳ねた。
風が顔を掠める。
腰を引いた瞬間、スカートの内側が視界の端をかすめた。
2人の目が、止まった時間の中でぶつかる。
「……また、見ましたね?」
「ち、違っ」
「見ましたね。もうダメです」
「いやいや、待てって」
柊は頬を赤らめたまま、真顔で言う。
「責任、取ってください」
「責任?」
「結婚です」
「はぁ!?」
「うちの流派では、スカートの中を見られたら、結婚なんです」
「そんなルール聞いたことねぇよ!」
柊はくすくす笑いながらも、目は逸らさなかった。
その笑顔が、いたずらのようで、どこか危うい。
掴みどころのない空気。
そのまま彼女は踵を返して、フェンスの影に座る。
「ねぇ、先輩」
風に紛れるくらい小さな声だった。
ただ呼ばれただけなのに、胸の奥がひくっと跳ねる。
涼太はゆっくり振り返った。
「……なんだよ」
柊はフェンスに寄りかかりながら、春の光に照らされて半分だけ影を落としていた。
その顔はいつもの“無邪気な後輩”なのに、瞳の奥だけが妙に静かだ。
「私、最初にあなたを見た時、恋に落ちたと思ったんです」
口調はさらっとしている。
まるで朝の天気でも言うみたいに軽い。
だからこそ、言葉だけが妙に胸に刺さる。
「……は?」
思わず声が裏返る。
柊は少しだけ笑い、視線を落とした。
制服の袖口を指先でつまんで、ひと呼吸置いてから続ける。
「でも、よく考えたら違いました」
髪が風で揺れる。
笑っているのに、どこか影がある。
「好きとか、そういうんじゃなくて、同じ匂いがしただけでした」
その言葉に、背中がぞくりと震えた。
泡みたいに軽い言い方なのに、意味だけが重く沈んでくる。
「同じ匂い……?」
問い返した声は、自分でも驚くほど小さかった。
柊は顔を上げる。
瞳が涼太にまっすぐ刺さる。
柔らかい笑顔のまま、表情だけがひどく真剣だ。
「こっち側ですよ」
風が止まったように感じた。
遠くの校庭の声まで急に遠ざかる。
「戦いたい人。壊したい人。平和なままでいられない人。」
語尾は優しいのに、言葉そのものは刃みたいに鋭い。
冗談めいているのに、本気の温度が隠しきれていない。
涼太は息をのみ、喉がうまく動かなかった。
心臓の音だけがやけに大きい。
柊はほんの一歩、近づく。
「先輩、あなたもそうでしょ?」
笑顔なのに、瞳は逃げ場をくれない。
“同じ匂い”と呼ばれた意味が、じわりと体の奥からせり上がってくる。
風が止んだ。背筋がひやりと冷えた。
その一言だけで、空気の温度が変わる。
「そんなわけあるか。俺は…」
「違うって言いたい?」
柊が静かに笑う。
「でも、身体はもう知ってますよ。どう動けば生き残れるか。怖いと思うかもしれないけど、それがあなただから」
沈黙。
フェンスの向こうで野球部の声が遠くに響く。
日常の音の中で、二人だけが異物みたいに浮かんでいる。
「……俺は別に、戦いたいなんて思ったことない」
「うん。いまは、ね」
柊は立ち上がり、スカートの裾を払った。
春風の中で、いたずらっぽく笑う。
「でも、きっとすぐですよ。先輩、退屈そうな顔してるもん」
「勝手に決めんな」
「じゃあ、証明してください」
「何をだよ」
「退屈じゃないってこと」
そう言って、彼女はポケットから飴玉を取り出し、涼太の手にポンと乗せた。
「それ、次会った時に返してくださいね」
「なんで飴?」
「お守りです。口の中、甘い方が怖くないでしょ?」
わけがわからない。
でも、確かに不思議と笑えてしまう。
「……お前、ちょっと変だぞ」
「はい。よく言われます」
そう答えて、柊はくるりと踵を返した。
非常扉の向こうに消える寸前、振り返ってまた笑う。
「じゃ、また後で。先輩♡」
扉が閉まり、音が消えた。
残ったのは、風と鼓動の音だけ。
掌の中の飴が、やけに重い。
真白が残した“同じ匂い”という言葉が、耳の奥で何度も反響した。
「そもそも、舐めた飴どうやって返すんだよ…」
俺は空を見上げた。
春の雲がゆっくりと流れていく。
平和な空の下で、
胸の奥が、静かに、確実に熱を帯びていくのを感じていた。
REACTOR ブリードくま @trystan530
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。REACTORの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます