第八話・後篇 「甘く危険な香り ― 月下の邂逅 ―」
──港町中華街、ある評判の飲茶店
午後2時を過ぎると、昼の賑わいが引き、店内は嘘のように静けさに包まれる。
凛子はいつも、その穏やかな時間を狙って隅の席で遅い昼食をとっていた。
「おつかれさん。こんな時間に昼食か?」
不意にかけられた声にびっくりして顔を上げた凛子の前に、ドカッと腰を下ろす月ヶ瀬。
「あ、そうだ。吉野の傷はすっかり良くなってる。女は化粧するせいか、もう分からんくらいだな」
「……良かった」
凛子はほっと胸をなでおろすと、すぐに給仕が注文を取りにやってきて、月ヶ瀬は目に入ったAランチを選ぶ。
(えっ、ここで食べるの?)
「……今日は、何のご用で?」
「いや、腕のいい推命家様とランチでも、と思ってな」
「嘘」
「嘘じゃないさ。まあ、しいて言うなら……」
周囲に人がいないことを確認した月ヶ瀬は、身を寄せ、小声で話した。
「例のスクールの調査、キナ臭いことが次々と出てきてな。昨日、家宅捜索に踏み込んだのはいいんだが……妙なんだ」
「妙?」
「“阿片入りの香”のことさ。仕入れ先は香料専門の大手で、まっとうな会社だし、伝票にも怪しいとこはない。……どこで“阿片入りの香”と差し替わったのか、まるで検討がつかない」
そんな話に耳を傾けながらも、凛子は熱々のシュウマイにそっと箸を伸ばした。
「ここまで痕跡がないと逆に不自然でな」
「まるで“神隠し”みたいな?」
「そうそう、そんな感じだ」
「大変ですねえ」
――もしも。
もしも、相手が「呪術師」ならば、“神隠し”現象にも納得がいく。
――果たして、彼の方はどう思ってるのだろう?
「香のルートのことは、ひとまず置いておいたほうがいいかもしれませんよ。ほかにも調べることがありそうですし。」
すると、月ヶ瀬から返ってきたのが意外な言葉だった。
「登らなきゃ見えない景色もあるだろ?」
そう言って、苦笑しながら煙草に火をつけた。
「……あんた、こういう“占い師っぽい言葉”、好きだろ?」
凛子はその言葉に唖然とし、「は?」と目と口を大きく開いた。
(好きっていうか……それ、田辺先生の言葉だから!)
凛子は残りわずかの水を飲み干し、勢いよく身体ごと後ろにひねり、大声で叫んだ。
「阿姨,给我水!(おばちゃん、お水ちょうだい!)」
⁂
店内のテレビから御蔭池家のニュースが流れてきた。
気づいた月ヶ瀬が凛子に声をかける。
「ところで、“霊能一族”って言うけど……“霊能”って何だ?
宜保愛子みたいなものか?」
宜保愛子――80年代にテレビで一世を風靡した霊能者だ。
「幽霊や呪いって、本当にあるのかねぇ?」
(……ああ、これがこの人の本音か。麻薬を扱っている組織が、実は霊能団体かもしれない――なんて、やっぱりピンとこないわよね)
「“呪い”については、歴史をひもとけば“ある”と言えるんじゃないでしょうか?まあ、信じる信じないは人それぞれですが」
月ヶ瀬はその言葉に「うーん……」と唸り、頭に手をあてた。
「歴史で言うなら……“崇徳天皇”か、いや“菅原道真”かな……ああそうだ、“源氏と平氏の戦い”あたりもそう言われてなかったか?」
――源氏と平氏の戦い。
『治承・寿永の乱』と呼ばれた六年間の争いは、実は呪術合戦でもあった。
結果、源氏が勝利するも──その血筋は、わずか二十数年で絶えた。
頼朝の死は記録にも空白があり、平家の“呪い”や“怨念”とする説もある。
“御蔭池家”は、源氏側の末裔ではないかと言われている。
平家の呪いから身を守るため、自ら呪いの器となったとも。
その血筋には、時代を代表する陰陽師が幾人も名を連ねていた。
──そんな記録も、残っているとかいないとか。
「……ずいぶん詳しいですねえ」
「まあな、嫌いじゃないんだ、このあたりの歴史ものは。ところで“陰陽師”だが、本当にいたんだろうか? 人を操ったり、命を奪ったりなんて、人間にできることなのかねえ?」
月ヶ瀬はどこか、絵空事でも語るような口ぶりで話す。
凛子はそれに答えた。
「陰陽師のルーツは“陰陽五行説”。私たちが占いで使っている“推命”と同じ起源です。だから、もともとはそれほど怪しいものではなく、むしろ学問に近いんですけど──時代が進む中で、密教や道教が混ざり、独自の呪術に変わっていったらしいから……まあそうなると、怪しくもなりますよね」
「ほう…ところで、その“呪い”ってのは、誰でもできるものなのか?」
月ヶ瀬は最後のシュウマイを口に放り込んで凛子に尋ねた。
「──意外と、誰にでも扱えるものだと思いますよ。たとえば、宗教団体が大勢で唱えるとき。あれもひとつの力。“超能力”って、結局は集中力の一種。誰の中にも眠っているものかもしれませんね?」
そう話す凛子の言葉にうなずきながら、月ヶ瀬もまたこの不可解な事件の“闇”を解き明かすべく、頭の中で思考を必死に巡らせた。
⁂
しばらくすると店内にはすでに人影がなくなり、厨房から聞こえる中国語と、食器がぶつかる音だけが響いていた。
「例のひかるって男の素性も分かった」
凛子は驚いて顔を上げたが、月ヶ瀬は視線を合わそうともせず、食事の手を止めないまま淡々と話し始めた。
「本名は前田光。生まれは千葉。生年月日は1946年9月20日、どうだ、あんたが知ってたのと合ってたか?」
「はい。良かった……」
(そこに嘘はなかったんだ、鑑定もちゃんと聞いてくれてたんだ……)そう心から安堵する凛子。
「実家は元々医者の家系らしい。だが、受験に失敗して家を飛び出したきり、行方不明のままでいたそうだ。……で、あんたは、この男の何を調べてるんだ?」
凛子は一呼吸おいて、ミゾグチに関すること全てを伝えようとした。
「……ミゾグチさんは以前、ひかるさんのお店で働いてたみたいなんです。彼のことを、ひかるさんはずいぶん可愛がっていたそうですよ。でも、お店の人が言うには、ミゾグチさんはお金を持って逃げたこともあるとか。
ひかるさんにしたら憎い相手でしょうに、どうしてそんな人がいるドマーニに通ってたんでしょう?それに――なぜ顔見知りなのを、私たちに隠していたのかなって……」
「それで?」
「私、見たんです。ミゾグチさんが殺されたあと、スタッフルームの前でウロウロしてたひかるさんを」
月ヶ瀬は額に手を当て「あんたは本当にもう、肝心なことを……」そう言って、心底呆れたように肩を落としてうなだれた。
「ごめんなさい……」
凛子はうつむいたまま謝った。
「まあ、いい。話を続けろ」
凛子は深くうつむいていた顔を、ガバッと上げた。
「私が思うに、ひかるさんはミゾグチさんの荷物を確かめたかったんだと思うんですよ。もしかしたら、犯人を捜すヒントが欲しかったのかもしれません。」
「なんでそこまで?金も盗まれたことがあるんだろ?」
「だからね、ひかるさんとミゾグチさん、実は“親子”だったんじゃないかと思って」
凛子が思い切って発言した言葉に月ヶ瀬は背もたれにのけぞり、首をかしげた。
「またぶっとんだ考え方するな、それは……“占い”でそう思ったとか言わないよな?」
「そんなことないですけど。いや、やっぱちょっとそうかもしれないけど……」
──何だか占いをコケにされてるみたい。
やっぱり、言うんじゃなかったと、少し後悔し始めた凛子。
月ヶ瀬はしばらく黙り込み、氷の入ったグラスを無造作に揺らした。そして、まっすぐ凛子の目を見た。
「じゃあ、直接行って聞いてみるか?ミゾグチの母親のとこに」
意外な月ヶ瀬の言葉に、凛子は思わず声を上ずらせた。
「え!本当に?……行く、行きます!」
そう勢いよく返事したのち、店の時計の針を確認すると、まもなく休憩時間が終わりそうになっていた。
「あ、もう時間だから、お先に失礼します」
そう告げて伝票を手に取ろうとした瞬間、月ヶ瀬がその手を取った。
「俺が払うよ。貴重な話を聞かせてもらった礼だ」
その言葉に、凛子は一瞬ドキリとする。
(……ま、トランのパフェ代は私が払ったし)
「では、お言葉に甘えて。ごちそうさまでした」
そう言って店を出ようとしたその時。
凛子は急に立ち止まり、くるりと振り返った。
「どうした?」
「……また、“初めて”だと思って」
「何が?」
凛子は少し視線を下げながら言う。
「父以外の人に、奢ってもらうの」
その言葉に、月ヶ瀬は少し驚いた。
「あのトランってやつ、奢らねえのか? 男のくせに」
――かつてバブル期の日本では、“男が奢るのが常識”だった。
「トランは年下だから。奢らせるなんてしませんよ」
「……ほう、やはり節度あるな、この女は」
「ん? 今、何か言いました?」
つい、口をついて出た言葉に、月ヶ瀬は慌てて口元を押さえた。
「いや……ただ、あんた、よく見りゃ綺麗な顔してるし、その気になればもっと贅沢できるのになって。
ちょっと、そのあたり損して生きてるんじゃないかと思ってさ」
凛子はその言葉にハッと目を見開いた。
月ヶ瀬は慌てて視線を逸らし、気まずそうに口を開いた。
「もしかして、あれか? これもセクシャル……なんとか?」
「いえ」
凛子はふっと微笑んだ。
「ちなみに、“綺麗”って言われたのも、初めてです。
……想像してたのとはちょっと違うけど。
でも、嬉しいです。では、ごちそうさまでした」
そう言って、足早に店を出た。
彼女の背中が見えなくなったあと、月ヶ瀬は頭をかきながらつぶやく。
「……なんだろうな、あの人。よくわからん」
⁂
ドマーニに戻った凛子は、そのまま自分のブースへ向かい、鏡の前に立った。
そして、静かに息を整えると、ふっと笑みを浮かべてみる。
(何だか気分がいい)
そして軽やかに動く身体で、客を迎える準備を始めたそのとき。
空気が――凍りついた。
凛子の表情が一変する。
どこからともなく、低く響く声。
「……戦いは、まだ終わっていない」
頭を強くふり、耳をふさぐ凛子。
――それは子供の頃から幾度となく聞いた声。
(でも、今は恐れている場合じゃない。ひかるさんたちを殺した犯人を見つけなきゃ!)
凛子は拳で頭を叩きながら、強く強く、自分に言い聞かせた。
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