第四話 「雨に滲む兆し」

ネオンが色鮮やかに灯り、一層異国感が増す港町中華街。

ざわつきが消えない街の夜、吉野を含む数人の警官が、道端にたむろしている少年少女に声をかけた。

「早く帰りなさいよ」「はーい」子供達は慣れたように返事をした。


吉野がふと横を向いた時、勤務を終えた凛子を見かける。

吉野は他の警官に「あとはお願い」と言わんばかりに手を振ると、小走りで凛子に追いついた。


「お疲れさま!今帰り?」


「こんばんは、刑事さん。はい、帰りです」


「吉野でいいわよ。お店が元に戻ってきたようで良かったわ」


色とりどりの光が凛子を照らしているせいか、骨格が露わになり、さらに彼女を華奢に見せる。

吉野は思わずその姿に見入ってしまった。


凛子は「おかげさまで」と一礼をして顏を上げると、まじまじと自分を眺める吉野の観察的な目線に気づく。


「あの、何か?」


「……いや、気を悪くしたらごめんなさい。うちの次女が今、中二なんだけどね、その……」


──やはり娘がいるのか。

吉野の母性はそこから来ているのだと凛子は悟った。


「どうぞ、遠慮なくおっしゃってください」


「その、凛子さんって骨格も華奢なのね。ちょうどうちの娘と同じくらいで……とても大人の女性と思えないくらい」


吉野は“童顔”というだけでは片づけられないほどの違和感を凛子から感じていた。


(刑事も占い師と同じで、人間観察が癖なのかしらね)


「体質なんです。遺伝的に成長が遅れるところがあるみたいで。病気ではないので大丈夫ですよ」


吉野は凛子のその言葉に、それ以上は踏み込まずに、安堵したような笑みを浮かべた。


「ああ、ごめんなさいね。でも、この歳になると、その体質が逆に羨ましくもあるわ。化粧水がね、もう全然吸い込んでくれなくなっちゃって!」


そう言って、自分の頬を軽く叩いて、茶目っ気タップリに笑顔を見せた。


こんなふうにサラリと洒落た返しができるのも、いかにも自立した“大人の女性”らしかった。


──私もいつか吉野さんのように、大人っぽくスーツを着こなせる女性になれたら……なんて、夢ね


凛子はそんなことをぼんやり考えながら「電車の時間がありますので」と再度一礼してからくるりと前を向いて歩きだしたが、吉野もそれに合わせて歩いた。


「そういえば、月ヶ瀬がしょっちゅうお邪魔してるみたいだけど、ごめんなさいね」


「いえ、捜査のためですから」


「許してやって。あれはね、『これ』と思ったら、手段を選ばず一直線なのよ」


「……仲いいんですね」


「中・高の同級生なの。あと、うちの旦那がね、彼と親友だから。……まあ、くされ縁ってやつね」


彼の学生時代を想像しただけで、凛子の口元に薄い笑いが浮かぶ。


きっと彼はこんな理解ある人に囲まれて、まっすぐに大人へと成長した人なんだろう。


凛子はそうは思いつつ、なぜか胸の奥でチクっとした痛みを感じた。かつてないほどの奇妙な感覚だった。


(何かしら、この痛み……明日は雨でも降るのかしら?)


雨が降ると体の感覚が敏感になるので、そのせいだと凛子は思いこんだ。



今日は港町全域で雨の予報。

ここ港町中華街にあるドマーニの朝も、どしゃぶりの雨から始まった。

湿気が多いと蒸し暑くなるものだが、今日は肌にまとわりつく湿気が、少し冷たい。


「なんか気になるんだよなあ、あの部屋……」


開店前の静けさのなか、トランがブツブツ言いながら凛子のブースに入ってきた。


トラン南塚。

本人は気づいていないが、なかなか勘がいい。


これを占いにも活かせれば良いが、タロットの腕は今ひとつ頼りない。

それでも、ひっきりなしにお客が訪れる彼は、ドマーニの稼ぎ頭であり、まさに「アイドル」だ。


「そうね、たしかにあの部屋は“陰”の気が強すぎるから、“女の怨念”がこもりやすいわね。“幽霊”だって、いたかもよ?」


あの部屋にいたら、“死”とまではいかなくても、多少の病は患うだろう。


つまり、キサラも体調を崩していた可能性が高い。


──これは、見過ごせない鑑定結果だわ。


「やだ怖い……じゃなくて、違う! 風水のことじゃなくて、あのお香のこと!」


トランの言葉に凛子ははっとする。


キサラの部屋に残っていた“香”の名残——。


「僕、この前インドに長く行ってたでしょ? お香売り場もたくさん回ったけど、あの部屋の香りは一度も嗅いだことないんだよね」


この男、ミゾグチと違って、なかなか鼻が利くタイプだ。


「あの残り香がさぁ……子供の薬みたいな、甘ったるい匂いだったよね。妙に鼻に残って……うまく言えないけど、ほら、わかるでしょ?」


うまく言葉にしようと、手を動かしながらトランが説明した。


「ミゾグチさんのお香と同じかと思ったんだけど、違うっぽいし……」


凛子は引き出しから、ひとつの“香”を取り出して見せた。


それは、ミゾグチが持っていたものとは形状が異なり、三角形をした淡いピンク色の香だ。


「それ、どこから? まさか……」


トランの顔色がみるみる青ざめていく。


「大丈夫。キサラさんの部屋にあったものじゃなくて、加恋のスタッフルームにあったやつよ」


「それを勝手に持ち出したの!?」


「べつにいいんじゃない? 誰でも触れるとこにあったわけだし。仮にバレでも『加恋で働いてる占い師にもらいました~』で、いいんじゃない?」


凛子という人間は、頭の回転は抜群に早いが、ときどき大胆すぎる行動に出る。


「いや、それでもさ……見つかっても、僕知らないよ~」


トランはそう言って、手をひらひら振りながら、凛子からじわじわと離れていった。


ああ、今日はあの怖いおまわりさんがいなくて良かった……


トランがそう思っていた矢先、聞き覚えのある重たい革靴の音が廊下に響いた。


「月ヶ瀬だ。ちょっといいか?」


――来た……!


突然の訪問に、トランはオドオドしはじめ、挙動が不審になったが、凛子は、まったく表情を変えない。


「刑事さん、今日もお暇そうですね」


「聞き捨てならん発言だが、今日は許そう。それより――」


──今日も、どうやら仕事できそうにないみたい。


凛子は、短くため息をついた。



建物の中にいても響くほど、雨音は強まってきた。


どうせ客足も遠のくだろう。


「今日は何のご用ですか?」


凛子がそう尋ねると、月ヶ瀬は手に持っていた週刊誌を広げた。


そこには「御蔭池」の文字が大きく載っている。


――御蔭池一族


平安・鎌倉時代から続く霊能一族。「秘された血筋」を継ぐ家系であり、系譜を辿れば、かの源氏の本流に辿り着くという。


呪術に長けた一族の繁栄は絶えることなく、一族の中には資産家も多いとされるが、武家の世が終わり、その存在を歴史の闇に封印して以来、表には決して出ず、謎に包まれた一族だ──。


凛子はそのページを見て表情を強ばらせたが、すぐに平静な顔に戻し、話す月ヶ瀬たちに気づかれないよう努めた。


「最近、この“霊能一族”ってのが、この辺の占い師相手に手広く商売してたって話があるが……あんたら、何か聞いてないか?」


凛子は顎に手を当てたまま、記事を読み進める。



誌面の見出しにはこうあった。

──あの伝説の霊能一族が“開運グッズ”を販売していた



そのページに載っていた商品の「刻印」を見た瞬間、凛子の表情が再び一変した。


「どうした? 何か知ってるのか?」


「……いえ、何も」


「そうか。もし何か知ってる奴がいたら知らせてほしい」


「分かりました」と凛子が言うと月ヶ瀬は席を立ち、ブースを出ようとしたが、机の上で淡いピンク色に光る三角の香に、彼の視線が釘付けになった。


「それはまた、変わった色をしてるな。……それも“香”か?だが、ミゾグチが持ってたものとは違うな。海外製か?」


帰ろうとした体を再び正面に向けて、食い入るように“香”を見つめる月ヶ瀬。


「これ、加恋のスタッフルームにあったやつ、みたいです」


「“みたい”ってなんだ?」


凛子はわざとらしいほど甲高い声で言った。


「加恋の占い師からもらったんですよ! ね、トラン?」


トランに同意を求めるが、当の本人はしどろもどろ。


しかし、凛子は依然あっけらかんとしている。


月ヶ瀬はその空気に違和感を感じたが、あえて追及せず話を進めた。


「で、使うのか?それ」


「使いません」


「フーン、曲がりもの吸い込んでミゾグチみたいになっても嫌だわな」


「いえ、そうではないですけど。この香は犯罪の匂いがするので」


「犯罪の?何だよそれ」


「これ、“混ざってる”感じが、するんです」


ブースの外では、数人のお客が入ってきたようで、ざわめきと話し声が聞こえてきた。


トランは周囲を気にしながらも、再び凛子の話に注目した。


「ミゾグチさんの香と、キサラさんの部屋に充満していた香。どちらもかなり消臭力が高くて香りも強い品でしたよね?──そういう強烈な香りを使うときって、たいてい何かを“隠す”ためだと思いません?」

凛子がそう言うと月ヶ瀬はごくんと唾をのんだ。


「……つまり?」


「つまり、隠したかったのは“こっちの香”じゃないかと」


「なんで、そう言えるんだ?」


月ヶ瀬の問いに、凛子は一瞬、言葉を詰まらせ、はっとした顔で彼を見返した。


――ああそうだ、刑事さんに「あの女」の話をしていなかった!


凛子は、昨日訪ねてきた謎の女性について話し始めた。

そう、ミゾグチの荷物を取りに来た、この香と“同じ匂い”がしたあの女の……。


「そういう大事な事は早く言えよ!」


月ヶ瀬が思わず声を張り上げた。

その声が思ったより大きかったので、トランがまた外の様子を気にし始めた。


「……もう一度『加恋』に行きませんか?確認したいこともあるし」


凛子がそう言うと、月ヶ瀬は「ああ、そうしよう」と言って席を立ち、凛子も続けて席を立って、二人で出入口へ向かった。


「ぼ、僕も行くよ!」


慌てて二人の後を追おうとしたトランだったが――


「トランさん、そろそろ仕事しましょうね?」


出入口付近で店長に首根っこをつかまれ、そのまま引き戻された。


――どうやら今日は諦めるしかないようだ。


トランはトボトボと自分のブースへ戻っていった。



凛子と月ヶ瀬が店を出ると、さっきまでのどしゃ降りが嘘のように、雨はすっかり上がっていた。


淡い雲の隙間からは、ところどころ青空ものぞいている。


凛子は空を見上げ、両腕を大きく広げて、ぐーっと伸びをした。


そしてそのまま、加恋へ向かって歩き出す。


──新たな“真実”に出会うために。

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