第三話 「ミステリーは突然に」

──朝のドマーニ


3日ぶりに店がオープンすると、数人の女性が待ちかねたように来店し、口々にトランの元へ声をかけた。


……いや、ひとり『男』もいる。


「凛々センセ、お元気だった?」


「はい、ひかるさんもお元気そうで」


「も~、ドマーニに3日も来なかったから調子狂っちゃったわよぉ!」


ひかるはひとしきり興奮して話し終えると、そこで初めてあたりを見渡した。

「現場検証はもう終わったみたいね」

彼はそう言って、胸にそっと手を当て、安堵の息をついた。


──ひかるさん、いつもと変わりない。


あの日、スタッフルームの前にいたのは、いったい何だったのかしら──。


そのままひかると雑談をしていると、窓の外でこちらをうかがう人影に気づいた。


そして、その人物がしばらく躊躇したあと、カラン、とドアチャイムを鳴らし、扉を開けた。


「おはようございます。今日はミゾグチさんの荷物を取りに伺いました」

とびきりの笑顔でそう挨拶したのは、二十代後半ほどに見える女性だった。


彼女は装飾のない白いワンピースをまとい、唇にはルージュひとつ塗っていなかった。


(ミゾグチさんの荷物を!?)


その場にいたのは凛子とひかるだけだったので、そのまま凛子が対応することになった。


「恐れ入りますが、どちら様でしょうか?」


凛子の問いに、女は再び笑みを浮かべて答えた。


「ミゾグチさんに大変お世話になっていた者です」


ミゾグチって、女癖が悪かったのかしら?

あの「命式」なら、ありえなくもないかしらね。


凛子は、女の頭の先から足の先までじっくり観察した。


女はそんな目線を気にする素振りもないまま、落ち着いた口調で話し続ける。


「私の荷物を預かって頂いておりまして。そちらだけでも引き取らせてもらえますか?」


そう言う女からただならぬ空気を感じた凛子は、即座に警察を口実にした。


「すみません、警察からはまだ荷物を動かさないように言われてて。ちょっと今すぐにお渡しするのは難しいかと」


もちろん警察の件は口から出たでまかせだったが、凛子にはミゾグチの備品はゴミ一つ渡してはいけないような気がしたのだ。


荷物の引き取りを断られた女は、依然笑顔のままだが、一瞬、左頬が小さく引きつったようだった。


(あら……予定どおりにいかなかったことがそんなに気に障ったのかしら?)


凛子は、表情のわずかな揺らぎから、相手の小さな苛立ちを見逃さなかった。


「では、また来ます。どうぞよろしくお願いします」


女が店を後にした後、ひかるは唇に人差し指を添え、「ん~」と小さく唸る。


「……何か一癖あるような女ね」


「あ、ひかるさんもそう思います?」


「職業柄ね、そういうの分かっちゃう。でもセンセは、なんでそう思ったの?」


たしかに一見、何の変哲もない普通の女だ。

ただ、こういう時はあの“占い”が役立つ。


「【見通占】ですよ」


「見通占?」


「易学の知識がなくても、訪問者がやってきた方角と訪問日の干支で、その人の性格や、時には要件の内容まで分かるんです」


「そんな占いあるのね! で、あの女の正体は何て出たの?」


ひかるはそう言って息をのんだ。

なんだかんだ言って、占いが好きなのだ。


「今日は“卯”の日、南方より来た人──心がひねくれている、偽りを言い、不誠実。なので、きっとあの笑顔も偽者ですよ」


(……ただ、ひかるさんにはこの占いは使えないけどね)


ひかるのあの日の行動には、いまだに妙な引っかかりが残る。だが、店にこれほど良くしてくれる客をこれ以上疑うのはもうやめよう。


凛子はそう固く決意し、思考を打ち切った。



しばらくすると、また聞き覚えのある足音が近づいてきた。


「またあの“刑事”だ」


凛子は嫌々ながらも、その足音の主を捉えようと視線を向けた。


「ちょっといいか?」


そう言って、月ヶ瀬は凛子の腕をつかみ、そのままぐいと引っ張った。


凛子は引っ張られながらも、振り返ってひかるに声をかけた。


「ひかるさん、ごめんなさいね。ゆっくりしていってね」


その様子に、ひかるは一瞬目を丸くしたが──すぐに、ぱぁっと顔を輝かせた。


「え~? なに~? 誰? 警察? じゃなかったら……誰~?」


凛子のラブロマンスを勝手に妄想して、テンションが上がるひかるだった。



凛子は自分のブースに、月ヶ瀬とともに入った。


「どうぞ」と椅子をすすめる凛子に、「ああ」とだけ言って、月ヶ瀬はドカッと勢いよく椅子に腰を下ろす。


(この人、また許可もなく勝手に腕掴んできたなあ……)


そんなことを思いながら、月ヶ瀬の言動を待つ。


……が、なぜか妙な間が流れる。


何だこの沈黙は?

凛子は思わず眉をひそめた。


「あのう、今日は……?」


そうおずおずと声をかけると、月ヶ瀬はあさっての方向を見ていた目を、凛子の方へ向けた。


「あれ、俺のじいさん」


月ヶ瀬は、凛子が尊敬してやまない「田辺緑山」の写真を指で指した。


「ええええええーーー!? 嘘でしょ!?」


凛子は驚きのあまり、椅子に座ったまま飛び上がってしまった。


「嘘じゃないさ。あの本だって、実家にある。この前来た時は部屋の中をそこまでじっくり見てなかったけど、何か馴染みのあるものがありそうな雰囲気はしてたんだ」


「でも、今まで“推命”のことは、何もご存じないご様子でしたけど?」


そう言って、月ヶ瀬を問いただした。


「まあ、俺が生まれた時にはじいさんはもう死んでいなかったし、家族もじいさんの跡は継がなかったから、正直、占いのことは何にもわからない」


凛子は、そう話す月ヶ瀬の様子に、妙な信ぴょう性を感じた。


(……なんせ相手は警察。こんなつまらない嘘はつかないだろう。これは、失われた知識を取り戻す千載一遇の機会かもしれないっ!)


凛子は閃いた。


──そうだ。捜査の役に立てば、家に眠ってる“お宝”のひとつでも譲ってもらえるかもしれない。警察にとって田辺先生の本なんて、“猫に小判”でしょうし。


途端に態度を変えた凛子は、「お、お茶でも入れましょうか」と急に丁寧な口調で持ちかけた。


「いや、普通にしてくれよ」


──そうは言っても、田辺先生の孫と分かったら調子が狂う。


そんな凛子の動揺をよそに、月ヶ瀬は「それよりも」と話を遮った。


彼は胸元から手帳を取り出し、ペラペラと数ページめくると、ある箇所で手を止め、静かに凛子の方を見た。


「今日は、ミゾグチの再鑑の結果を教えに来たんだ」


凛子ははっとして、すぐに思考を切り替えた。


「ミゾグチの鼻の粘膜から、大量のゴム樹脂が見つかった」


「ゴム樹脂?」


「【ミルラ】っていう、樹木から出る樹液が、空気に触れて乾燥したものだ。香料や薬、化粧品にも使われる。これ自体は毒ってわけじゃない」


補足:

【ミルラ】とは、抗炎症作用・抗ウイルス作用・鎮静作用に優れ、防腐効果も高いため、古代エジプトではミイラ作りの際に体内に詰めていた。その名の由来はこの用途からとも言われている。


「あと、虫やら蛇の毒も微量だが混じってた」


「虫や蛇の?」


「ああでも、口に入れるわけじゃないし、致命傷になるほどの量ではない。どうせ東南アジアあたりのまがりものでもつかまされたんだろ」


「微量でも、燃やすと別の有害な分解生成物や微粒子が出て体に影響が出るってことは?」


「お、詳しいな。そのあたりもありえなくはないが、直で大量に吸いこむことなければ問題無いだろ」


「そうですか……」


凛子にはひとつの呪術が脳裏に浮かんだ。


(……まさか“蟲毒”?)


【蟲毒】とは、特定の毒虫や毒を持つ動物を一つの容器に入れ、共食いさせて最後に生き残った一匹を呪いに使うという最強の呪術方法だ。


しかし、こんな古典的な呪術が、今も行われているとは考えにくい。


まず、「素人」ではないだろう。


さて、この話を目の前にいる警察に話すべきかどうか……。


しかし、現段階では、あまりにもリスクが高い。


(それこそ、「占い師は怪しい」を通り越して、“危ない奴”だと思われそう)


チラリと月ヶ瀬を見ると彼はまだ【ミルラ】のことを考えているようだった。


「やはりただの発作かもしれん、殺菌作用が強いものは体質によっては致命傷になるからな。俺の勘が外れたかもな」


月ヶ瀬は机に肘をつくと、顎に手を当てたまま、小さくうなだれた。


凛子はその様子を見て、唇に指先を添えながら考えを巡らせた。


「真相は分かりませんけど……“そういう判断が成り立つように仕向けられた”という可能性もあるかもしれません。

一見して問題がないものほど、病巣を巧妙に隠していることがありますから」


いくら免疫力がない状態であったとしても、ミゾグチは重い疾患を持たない若い男性だ。


市販されているもので、そう簡単に死ぬことがあるのだろうか?


とはいえ、殺されたにせよ、どうやって?――


流れゆく思考は止まることなく、凛子の頭の中を支配した。


「賢いな、あんた。部下にほしいくらいだ」


月ヶ瀬がたいそう感心した様子でそう言うと、凛子の表情がスッと硬くなった。


「私は“あんた”ではありません」


ぴしゃりと返された瞬間、月ヶ瀬は(あっ、やっちまったか……?)と心の中でつぶやいた。

おでこに手を当て、一呼吸おいてから顔を上げる。


「えっと……凛々、じゃなかった」


自分でそう言ってみて、ふと違和感を覚えた。


「あんた、名前は?」


「凛子です。“り・ん・こ”」


(苗字を訊いたつもりだったんだけどな……)


そうは思いつつ、月ヶ瀬は少し言いにくそうに、声を落とした。


「じゃあ……凛子さん」


その呼び名に、凛子はピタリと動きを止め、次の瞬間には視線をそらしていた。


「……なんだ?」


「べつに、何でもありません」


「いや、明らかに変だろ。何かあるんじゃないか?」


「…………」


凛子はわずかに目を泳がせたあと、諦めたように口を開いた。


「……父以外の男性に、下の名前で呼ばれたのは……初めてです」


そう言ってしまってから、ふとあることを思い出す。


(あ……この人、奥さんいるんじゃなかったかしら?妙に意味深な言い方になっちゃったかも)


考えながらしかめっ面になる凛子を見て、月ヶ瀬は息をのむ。


「ああ、すまん。変な言い方だったか」


月ヶ瀬は慌てて頭を下げた。

それに対し、凛子も軽く頭を下げる。


「こちらこそ、奥様がいらっしゃる方には少し軽率な発言でした。でも変な意味はありませんので、誤解なきよう」


月ヶ瀬は少し気まずそうに口を開く。


「いや……まあ、今はいないから、奥さん」


その言葉に、凛子は何度も目をぱちぱちと瞬きした。


(ん? ってことは、独り身なのね)


月ヶ瀬のスーツの衿部分を眺め「……そのわりに、いつもパリッと手入れされたスーツを召されてますよね」と言った。


「ああ。洗濯もアイロンがけも、嫌いじゃなくてな」


それを聞き、凛子は思わず吹き出し、堪えきれずに笑い出す。


(え、うそ……この顔でアイロンとかかけちゃうの?)


ケラケラと笑い出す凛子に、月ヶ瀬は戸惑い、頭を抱えた。


――しかめっ面になったり笑いだしたり……最近の若い女は、ほんと何考えてんだか。


「……なんか、暑いな」


外では、じりじりとセミが鳴いている。

中華街の街並みも、いよいよ本格的な夏を迎えようとしていた。

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