第6話 水の剣、老いの盾

【水の糸】


 ——10月20日、朝7時。雨足が鳥海山麓を灰色に染めていた。自宅の縁側で孫・悠真の写真を見ながら靴紐を締める。6歳の彼は先週、初めて湧水でカエル捕まえたと電話で叫んでいた。「じいちゃん、水冷たい! でも生きてる!」その声が耳に残る。今日はその水を守るため、市役所に矛を向ける。


9時、市役所9階・副市長室。石黒正道は、いつもより眉間のしわが深い。

「本田さん、川越工業の新案をご説明します。採掘面積を20%縮小し、掘削深さは30メートルのまま、但し湧水側に防壁を」

「防壁で水の記憶は止まらん」

 私は、竹の杖で床を突く。カチリ、という音が副市長のデスクに届く。

「30メートルの深さが変わらない限り、反対だ。縮小などまやかしだ」

「法的には、0.7%のリスクまで抑えられると」

「0.7%でも、孫の水筒は空になる」

 私は、懐から小瓶を出す。今朝汲んできた湧水を置くと、副市長は黙って傾ける。

「うまい水だ」

「この味を、数字で換算できるか?」

「……換算できません」

「なら、換算するな。水を守れ」

 副市長は、深く息をついた。

「市長も同じ意見です。だが、経済界の圧力は」

「圧力は俺が受ける。お前たちは条例を貫け」

 私は、背筋を伸ばして室を出る。廊下の窓に、雨が斜めに流れる。まるで山が泣いているようだ。


11時、吉出字臂曲・集会所。薪ストーブに火が入り、古い梁がぱちぱちと鳴る。島田俊介が、茶筒を開けながら呟く。

「2016年、お前は‘絶対に負けない’と言ったな」

「あのときは、若かった」

「今も若い。ただ髪が白いだけだ」

 私たちは、笑いながら湯飲みを傾ける。水は同じ湧水だが、味が少しずつ変わっている。島田は、ストーブに薪を投げ入れる。

「あの裁判、負けたとき、俺は‘水は守れない’と思った」

「今は?」

「水は守らなくていい。水が俺たちを守ってくれる」

 私は、膝の上の新聞切り抜きを広げる。2016年の見出し――「住民側敗訴 公共性認めず」。島田は、火ばさみでそれをつつく。

「焼くか?」

「いや、折りたたんでトイレにでも流す。今日は違う」

 私は、切り抜きをポケットに戻す。雨音が、屋根を軽く叩く。子供の頃、同じ音を聞きながら父親に「水は神様の血管だ」と教えられたことを思い出す。


14時、雨一時止み。集会所裏の湧水に、子供たちが集まっている。川村彩の娘・結愛が、手のひらで水をすくっては空に放つ。

「レインボー!」

 水滴が光って、小さな虹を作る。私は、しゃがみ込む。

「結愛ちゃん、水冷たいか?」

「うん! でも生きてる!」

 まるで孫の悠真の声が重なる。彩さんが、傘を差しながら微笑む。

「本田さん、今日は市役所?」

「ああ、断ってきた。30メートルは譲らん」

「うちの子が『パパはお仕事で水を守ってるの?』って聞くんです」

「どう答えた?」

「‘守ってるよ’って。でも、本当は私たちが守ってるんでしょう?」

 私は、水たまりに手を突っ込む。冷たさが肘まで抜ける。

「水は、誰かが守るものじゃない。誰かを守るものだ」

 結愛が、私の肩に顎を乗せる。

「じいちゃん、明日も水ある?」

「ああ、ある。お前が飲むまで」

 虹が、もう一度現れる。今度は少し大きく、七色がはっきりと見える。


17時、集会所を出ると、西側に夕焼けが差す。雨上がりの空気が、まるで湧水のように澄んでいる。私は、ポケットの新聞切り抜きを取り出す。2016年の判決文を、一枚ずちぎりぎりに破る。破いた紙を風に放つと、紅葉と一緒に川へ流れていく。島田が、背後で声をかける。

「明日から、どうする?」

「若者を集める。‘湧水を守る会’を作る」

「高齢者は?」

「盾になる。矢を受ける」

 島田は、笑いながら杖を突く。私も、竹の杖を上げる。二本の杖が、夕日に長い影を落とす。まるで橋の杭のようだ。


19時、自宅の縁側。雨戸を開けると、日本海の音が遠く聞こえる。孫・悠真の写真をテーブルに置き、小瓶の湧水を並べる。2016年の新聞切り抜きの残り一片に、『水資源の公共性』という文字だけが残っている。私は、それを裏返しにして、ペンで書く。

「水は法律の文字ではなく、子供の笑い声で守る」

 妻が、茶を淹れながら呟く。

「明日、何時に出かける?」

「6時。若者の集まる場所へ」

「朝飯?」

「湧水と、意志だけ」

 妻は、笑いながら茶碗を差し出す。湯気が、孫の写真を包む。まるで水が時間を越えているようだ。


21時、寝床に入る前に、もう一度縁側に立つ。雨は完全に上がり、星が出ている。冷たい風が、頬を撫でる。私は、小瓶を握りしめる。

「水は過去と未来を結ぶ糸だ」

 その糸を断たせないために、明日から盾になる。矢を受けてでも、橋をかける。孫のために、ではない。孫と一緒に、水を飲み続けるためだ。


 時計が22時を回った。鳥海山の稜線が、月を背に静かに横たわる。私は、竹の杖を枕元に置く。明日の朝、杖は剣に変わる。水の剣。冷たく、澄んで、やわらかく。

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