第4話 0.7%の橋渡し
【橋渡しの係長】
——10月18日、朝7時25分。冷蔵庫の開け閉め音で目が覚めた。小学二年の娘・結愛が、ミルクをこぼしながら叫んでいる。
「パパ、今日は現場? 紅葉、きれい?」
「んー、パパは行きたいけど、資料の山が……」
妻・有紗が、トーストを口にくわえたまま私のネクタイを締める。
「村井係長、朝からご愁傷さま」
鏡をのぞくと、42歳の疲れがまぶたに乗っている。市役所13階、政策課のデスクに座る頃、もう疲れは肩こりに変わっている。
8時50分、執務室。佐久間課長が、再申請書類の束を「どさり」と置いた。
「村井さん、30メートル掘削の抵触箇所をピックアップして。今日17時までに住民説明会用のスライドを」
「30枚程度でしょうか?」
「50枚。背景に湧水の写真を入れて、色は市民の目に優しいブルー2号」
私は、奥歯を噛み締める。同僚の青木美咲が、小声でフォロー。
「係長、私が写真を撮ってきます」
「頼む。俺は条文の虫をほじくるよ」
9時半、パソコン画面。採石法第12条、同施行規則、鳥海市水循環保全条例第5条第2項が、タブで跳ねる。私は黄色い付箋を貼りながら呟く。
「……30メートル掘削は、水資源保全区域の『主要補給層』に直撃。数値上、0.7%の確率で湧水減少と推定……0.7でも、孫の水筒に直結する」
指先が震える。震えを抑えるため、コピー機まで歩く。廊下のドア一枚隔てた向こうでは、経済振興課が「企業誘致プラン」を誇らしげに掲げている。同じ廊下なのに、風向きが違う。
12時10分、昼休み。弁当のおかかが、のどにひっかかる。スマホに青木からの写真が届く。吉出字臂曲の湧水、紅葉の反射、子どもたちの裸足。最後に一枚、川越工業の藤沢部長が立ち尽くす後ろ姿。添えられたメッセージ――
「現場は、まだ風が冷たいです」
13時半、現地到着。霧は上がり、日本海側の空が裂けている。本田義郎会長が、竹ぼうきで水路の落ち葉を掻き出していた。
「村井さん、役所の紙は減ったか?」
「……増えました」
「紙より、水を見ろ」
私は、屈んで水面を覗く。冷たさが眉間に響く。結愛と同い年くらいの女の子が、手のひらで水をすくう。
「お姉ちゃん、これ飲める?」
「飲めるよ。でも、後でおなかこわすよ」
私は、思わず笑顔を作る。だが、胸の奥がきしむ。青木が、そっとシャッターを切る。
14時、現場の駐車場。藤沢部長が、安全帽を握りしめて待っていた。
「村井係長、0.7%の確率で、俺たちの雇用を殺ぐんですか?」
「0.7%でも、水が枯れたら100%回復しません」
「だったら、100%の雇用を殺して、0.7%の安心を買うんですか?」
私は、言葉に詰まる。藤沢の背後には、トラックの運転手、爆破技士、事務員の顔が重なる。彼らもまた、子どもに水を飲ませたいのだ。
「……代替案を、今夜までに」
「待ちます。でも、期限は明日の住民説明会でしょう?」
「その前に、孫の顔を見せてください」
藤沢は、財布から孫の写真を差し出す。プールで遊ぶ5歳くらいの男の子。水着の柄は、私が結愛に買ったのと同じキャラクターだった。
16時、市役所に戻る。エレベーターが12階で止まるたび、胃が垂れる。青木が、パソコンを覗き込みながら囁く。
「係長、スライド50枚は、市民は寝ます」
「わかってる。でも課長は50枚と……」
「20枚に圧縮して、残りは『おわりに』で渡せば?」
私は、彼女のモニターを覗く。シンプルな図解、大きな文字、そして最後に子どもの写真。水たまりに映る笑顔。私は、思わず息を呑む。
「この写真、使っていいか?」
「はい。現場で撮ったものです」
私は、青木の肩を軽く叩く。硬い役所の空気が、少しだけ柔らかくなる。
18時半、書類をプリントアウトしながら、課長室を覗く。佐久間課長は、まだデスク。私は、20枚版と50枚版を両手に持ち、ノックする。
「課長、市民が読むスライドは、短いほうが」
「……青木さんのアイデア?」
「私の最終責任です」
課長は、めずらしく笑った。
「村井さん、君は係長らしくなった」
「どうも」
「でも、条文の解説は削らない。水の記憶を、法で縛るんだ」
「承知しました」
21時、自宅リビング。結愛が、風呂上がりの濡れた髪を振り回している。
「パパ、この水で泳げる?」
「……泳げないよ、これは大切な水だから」
「じゃあ、守るの?」
「ああ、パパが守る」
有紗が、ビールを差し出しながら呟く。
「0.7%の確率を、100%の勇気に変えるの?」
「変えられないけど、橋にはできるかも」
私は、ノートを開く。代替案の骨子――
①段階掘削20メートルまで ②残り10メートルは隣接旧坑道 ③転換支援で新規雇用創出 ④モニタリングで水質公開
数字は、まだ甘い。だが、橋の桁は見える。
23時、寝室。結愛が、布団の中で小さなビンを握っている。今朝、現場で汲んできた湧水だ。
「パパ、これ明日持ってく?」
「ああ、説明会で見せる」
「水、こわれない?」
「こわれないよ。パパの言葉のほうが、よっぽどこわれそう」
私は、枕元のノートに最後の一文を書く。
「市政は数字の調整ではなく、未来への橋渡し」
明かりを消すと、ビンの中で水が揺れる音がした。ずしょ、ずしょ。それは、明日の自分の足音でもある。私は、息を深く吸い込んだ。冷たい、でも生きている。
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