第3話 未来への手紙としての条例

【条例の裏側に水の声を書き加える】


 ——10月17日、朝7時10分。自宅のキッチンでコーヒーを淹れながら、私はスマートフォンの画面に映る「再申請書類PDF ページ32」を指でなぞる。30メートル掘削という数値が、まだ寝惚けた網膜に焼き付く。沸騰寸前の湯気が曇らせたガラスに、鳥海山の稜線がぼんやりと浮かぶ。夫は「今朝も条例の夢?」と笑うが、私の答えは決まっている。「条例は夢じゃない、責任よ」


8時45分、市役所8階・政策課執務室。窓から見える日本海が、朝霧に煙っている。私は書類ケースの鍵を回し、水資源保全区域の基準図を広げる。赤いラインが、まるで血管のように鳥海山麓を這っている。再申請をしたA社の掘削予定地は、その血管の真上だった。

「佐久間課長、経産省からの問い合わせが」

 部下の若手職員が、恐る恐るメモを差し出す。

「『地方創生交付金の見直し可能性』だって」

「ありがとう、こちらで対応する」

 私は受話器を取りながら、ふと2013年のことを思い出す。条例制定当時、同じ経産省は「規制は経済を殺ぐ」と言っていた。十年経っても、セリフは変わらない。


10時、第一会議室・法的検討会。私はスクリーンに条文を映す。

「条例第5条第2項により、水資源保全区域内での30メートルを超える掘削は、原則禁止です。ただし書きの『公共の利益に著しく寄与する場合』に該当するかが争点」

 私の声が落ちると、法務担当の弁護士が指摘する。

「A社は『地域経済への寄与』と称して雇用データを提出してきました。百二十名の直接雇用、間接雇用を含めると三百名超」

「でも、水脈を断つリスクの数値化は?」

「ゼロではありません。ただし、裁判所が認めるほどの明確性は……」

 私は、ノートに「明確性≠命」と書いた。法的には弱い言葉だが、私の胸では最も重い。


13時、12階会議室。石黒副市長が、窓際に立ったまま訊く。

「佐久間さん、君の結論は変わらない?」

「はい。30メートル掘削は条例違反です」

「経済界は、『雇用を殺すのか』と言ってくる」

「私たちが守るのは、雇用の数値ではなく、働く人の水筒です」

 副市長は、小さく笑った。

「君は、時に詩人だ」

「詩は、条文の隙間を埋めるためです」

 私は、資料の最後に添付した「代替案」を開いた。段階的掘削、隣接区域での調達、A社に対する転換支援策。数字はまだ甘いが、筋は通っている。

「市長は、君の背中を預けている」

「背中は、湿っていますが」

「湿りきった背中で、条例を背負え」

 私たちは、短く握手を交わした。掌が熱い。それは、会議室の空調では乾かきれない熱だった。


16時、吉出字臂曲の現地。霧は上がり、紅葉が湧水を染めていた。本田会長が、水温計を差し出す。

「今朝は11.2度。去年より0.3度高い」

「傾向として、年々上昇気味です」

「魚が減った。子どもたちは、もうイワナを追いかけない」

 私は、湧水の脇にしゃがみ込む。子どもたちが、ビニール袋で石を拾っている。透明な小石が、水底で光る。

「お姉ちゃん、これ宝石?」

 小学一年生らしき女の子が、小石を私に差し出す。私は膝をついた。

「 宝石よ。でも、ここに置いてあげて。水の記憶が逃げないように」

 女の子は、不思議そうに首を傾げたが、小石を元の場所に戻した。ぽちゃん、と音がして、水の輪が広がる。その輪の中に、私の顔が揺れた。2013年の私が、条例の原案を抱えて同じ場所に立っていた頃の顔。


19時、自宅書斎。夫は夕食の後片付けをしながら、「また判決書?」と苦笑する。私は、2013年の手帳を開く。当時の私の走り書き――

「水は数値ではない。命の循環だ。条例は、循環を止めない鎖である」

 隣に置いた2016年の敗訴判決書。理由は「公共性の欠如」。私は、ペンを取って手帳の余白に書き加える。

「公共性とは、誰かの命を数値に換算しないこと」

 夫が、小さなグラスを置いた。

「鳥海の新酒。一口でいいから」

「……うまい。水の記憶が、米に移っている」

「君の条例も、いつか誰かの記憶に移るよ」

 私は、グラスを傾けながら、パソコンを開いた。明日の水循環保全審議会に提出する説明資料。タイトルは、今までと同じ「条例に基づく規制の正当性」だが、最初のスライドを白抜きにして、中央に一文字だけ書いた。

「水」

 次のページに、条文。次のページに、数値。次のページに、代替案。そして最後のページ――

「この水を、あなたの孫が飲める世界を守ること。それが私たちの仕事です」

 保存を押した瞬間、スクリーンに水滴が落ちた。涙か、グラスの飛沫か、わからない。私は、手帳を閉じた。2013年の私と、2025年の私が、鎖ではなく手紙を握りしめていることに気づいた。手紙の宛名は、まだ生まれていない子どもたち。私は、キーボードに指を置いた。

「条例は、骨組みではなく、未来への手紙である」

 明日、私はその手紙を、審議会という風に乗せて送る。届くかどうか、わからない。でも、手紙を書かなければ、水は循環しない。


 時計が零時を回った。外で、風が紅葉を散らしている。私は、スクリーンを消した。そして、最後の一口を飲み干した。冷たい酒が、喉を通る。それは、地底百二十年の時間を、瞬時に私の胸に運んでいた。

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