「余白の声」第9話「私信――終止の記録」
秋定弦司
「沈黙の証言」
拝啓。
長き歳月を顧みれば、あなたと共に歩んだ幾つもの季節の中に、確かに支えも、感謝もございました。
ゆえにこそ、今こうして筆を執ることが、いかに重く、胸を灼く行いであるか――あなたには想像も及ばぬことでしょう。
今までのやり取りの中で、私の心に深く突き刺さった言葉が幾度もございました。
その中でも特に私の心の中に深く残っているやり取りがございます。
それは私が平日は仕事のため、会食その他は土休日にしていただきたいと申し出た際、あなたはどのような返事をなされましたか?
「土休日はランチメニューがないから無理」、そして「平日のランチメニューがなくなったから土休日でも構わない」……もはや笑うしかございませんでした。
その軽薄な響きは、私の存在を“二百円の端数”に換算するかのような屈辱を私の心に刻みました。
あなたは覚えていませんでしょう……私の苦労――そう呼べるものならば――所詮他人事ですから。
「生活保護を受けて引っ越せばよい」、「仕事を辞めることを前提に考えたらどうか」
しかしその引っ越し先は「あなたのご自宅の近く」との指定付きという、噴飯ものなお話。
まるで私には、憲法に定められた居住や職業選択の自由は認められていないような口ぶりでしたね。
この際ですから言わせていただきましょう。私には「基本的人権」すらないのでしょうか。
「部下ならとっくに解雇している」。軽い冗談のつもりであったのでしょう。
けれど、その裏に響いたのは、私の尊厳が砕け散る音でございました。
「職場では厄介者扱い」、「精神的に壊れている」……。
根拠なき烙印の数々が、静かに私を削り落としていく――その様を、あなたは愉快げに眺めておられた。
私があの場で声を上げたとしてもあなたは否定されていたでしょう。しかし、私の心は確実に削り落とされてまいりました。
そして私は故意にあなたからの電話を取ることをやめました。それから4回目……初めて留守番電話にメッセージが入っておりました。
内容は関係を終わらせると決意させるには十分でした。
「退院したことを共通の知り合いに伝えてほしい」と……。
ここで私は悟りました。この関係は、もはや支え合うものではなく、互いを摩耗させるものへと変じていたのだと。
ゆえに私は、共倒れを拒みます。
ここで、記録を閉じます。感謝は確かに残っております。しかし、これ以上はお互いに“無理”という名の毒を飲み干すばかりになるでしょう。
――どうか、もう互いの呼吸を縛らぬように。
この手紙は、心の別れです。形式上の絶縁状は別にございます。
――それは感情を法の言葉に変えるための儀式。
ご恩は確かにございました。それでも、終止符は必要なのです。
私は怒りではなく、制度を選びました。
感情ではなく、記録を。証拠とは、心を曝すことなく己を守るための最終手段。
――私は被害者ではなく、証人でありたい。
感情は過去を宿し、法は現在を守り、沈黙は未来を清める。ゆえに――ここで記録を閉じます。
もう、何も伝えません。たとえ誰に届かなくとも、この沈黙こそが、私の声のすべてです。
――報告、終わり。
――記録、保存済。
――余白にて、静止。
これにて私は一切沈黙いたします。
……ただし、あなた様が私を罵倒する権利までは否定いたしません。 どうぞご自由になさいませ。
敬具。
「余白の声」第9話「私信――終止の記録」 秋定弦司 @RASCHACKROUGHNEX
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