赦しの指輪

てつ

第1話 疑念

「ねえ、最近ちょっと元気ないよね?」


リビングでコーヒーを飲んでいた香織が、向かいの悠真に尋ねた。

テレビの音が小さく流れ、秋の光がカーテンの隙間から差し込む。

悠真は一瞬だけ目を伏せ、曖昧に笑った。


「仕事、ちょっとバタついててさ。プレゼン続きで。」


「そっか。」

香織は頷いたが、胸の奥に残る違和感は拭えなかった。

彼の笑顔のどこかに「焦り」みたいなものが見えたからだ。


その夜。

眠れずにいた香織は、リビングに置かれた悠真のスマホに視線を向けた。

光が消えた黒い画面。見なければいい。そう思っても、心は勝手に動いていた。

通知欄に一瞬だけ現れた名前──「紗英」。


(紗英……?)


聞き覚えがある。

一度だけ、悠真が昔の恋人の名前として話したことがある人だった。


「偶然だよね。連絡、取ってるわけないよね……」


自分に言い聞かせるように呟いたが、心臓の鼓動が耳に響いた。

迷った末、彼女はスマホを手に取った。

指先が震える。ロックを解除する。

そこには、淡々としたメッセージのやり取りが並んでいた。


紗英「久しぶり。元気にしてる?」

悠真「うん、なんとか。君は?」

紗英「最近、通りかかったら会社の近くで見かけたよ」

悠真「そうなんだ。懐かしいな。」


たったそれだけのやり取りだった。

けれど、香織の胸に走った痛みは深かった。

「懐かしいな」──

その言葉の柔らかさが、彼の心が一瞬でも過去を振り返った証拠のように思えた。


「・・・嘘つき。」


スマホを静かに置いた香織の目には、涙が溜まっていた。


翌朝。

出勤の準備をする悠真の背中に、香織は勇気を出して話しかけた。


「ねえ、昨日さ・・・“紗英”って人から連絡、来てた?」


悠真の手が一瞬止まった。

だがすぐに振り返り、穏やかな笑みを浮かべる。


「ああ、ちょっとな。向こうが仕事のことで相談してきただけ。

 深い意味ないよ。」


「仕事の相談?」

香織は首を傾げた。「でも、懐かしいとか書いてたよね。」


悠真は一瞬だけ眉を寄せた。

「・・・見たの?」


沈黙。

香織は唇を噛みしめたまま、目を逸らせない。


「ごめん。でも、不安だったから。」


悠真は小さく息を吐いた。

「もう関わってないよ。昔の知り合いがたまたま連絡してきただけ。

 香織を裏切るようなこと、してない。」


その言葉を信じたいと思った。

けれど、心のどこかが囁く。

“嘘ではない。でも、真実でもない。”


それから数日、香織は笑顔を保った。

けれど、夜になると不安が蘇る。

悠真は「残業」と言いながら帰りが遅くなることが増えた。

スマホの画面はいつも伏せられ、ロックも変わっていた。


「・・・確かめないと。」


そう思ったのは、週末の朝だった。

悠真が「同僚と昼飯」と言って出かけた後、香織はコートを羽織り、

こっそり後を追った。


電車に揺られ、ビル街を抜け、カフェの前で彼の姿を見つける。

そこには──ひとりの女性がいた。

栗色の髪、柔らかい笑顔。

彼女の手が、自然に悠真の手に触れた。


「・・・あれが、紗英」


香織は立ち尽くした。

目の前で笑い合う二人の姿は、まるで昔に戻った恋人のようだった。

怒りでも悲しみでもなく、心の奥から“何か”が静かに崩れる音がした。


スマホを取り出し、震える手でカメラを向ける。

シャッターの音が、やけに大きく響いた。


夜、帰宅した悠真はいつも通りに微笑んだ。


「ただいま。今日は暑かったな。」


香織は返事をしなかった。

代わりに、撮った写真をテーブルの上に置いた。

悠真の顔から一瞬で血の気が引いた。


「・・・説明して。」


「違うんだ、香織。たまたま会っただけで──」


「手をつないでた。」


その言葉に、悠真は口を閉ざした。

香織は立ち上がり、震える声で言った。


「私は、あなたを信じたかった。でも、もう無理。」


彼女の目には涙が光っていた。

そしてその涙の奥で、何かが静かに燃え始めていた。

それは――復讐の炎。

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