白檀の花香り
志乃原七海
第1話雷鳴
***
### **第一話 雷鳴**
一九八五年、十月。
湿った真綿で首を絞められるような、生温い夕暮れだった。
切れない包丁が、人参の繊維を押し潰す鈍い音を立てる。ダン、ダン、ダン。
手首に響く衝撃をそのままに、私は乱暴にまな板へ刃を叩きつけた。鍋の中では、特売の豚こま切れ肉が灰色のあくを吐き出している。立ち上る湯気は醤油と安っぽい脂の匂いが混じり合い、換気扇の油汚れにへばりついていた。
居間のテレビからは、フリルのついた衣装で腰をくねらせる少女の映像が流れている。媚びを含んだ甘ったるい歌声。私は鼻を鳴らし、シンクに溜まった生ゴミの三角コーナーへ、人参のヘタを放り投げた。
ふと、手元の明るさが失せる。
窓枠の向こう、どす黒い痣(あざ)のような雲が、家々の屋根にのしかかっていた。
「……チッ」
舌打ちが乾いた唇から漏れる。
勝手口のサンダルを突っ掛け、庭へ出る。生乾きのコンクリートの匂い。
物干し竿には、主人のワイシャツが力なく垂れ下がっている。襟元には落ちきらなかった皮脂の黄ばみが、薄くへばりついたままだ。私はそれを鷲掴みにし、カゴへ放り込む。
その隣。あづさのブラウス。透けそうなほど薄い生地に、安っぽいレースがあしらわれている。袖口をつまむと、微かに汗とコロンの混じった、若い雌の匂いがした。
指先でその感触を拭い去るように、他の洗濯物と一緒に乱雑に丸め込む。
ぽつり。
額に冷たい雫が落ちた。空から落ちてきた泥水のような一滴を手の甲で拭う間もなく、アスファルトが黒い斑点に覆われていく。
「……あーあ」
ため息をつき、洗濯物の山を抱えて台所へ戻る。湿気を吸った布の塊が重い。
カゴを床に放り出し、鍋の蓋を開ける。煮汁が減っている。水を足すべきか迷い、お玉を持ち上げた瞬間だった。
ジリリリリ!
黒電話のベルが、鼓膜を直接針で刺すような音を立てた。
お玉を持つ手が止まる。
ジリリリリ!
鍋の火を消すのではなく、さらに小さく絞る。コト、コト、と煮える音が続くのを確認してから、私はゆっくりと手を洗った。タオルで丁寧に指の間の水気を拭き取り、呼び出し音が五回目を数える頃、ようやく受話器へ手を伸ばした。
「はい、山本です」
声のトーンを一段上げ、よそ行きの音色を作る。
受話器の向こうには、雨音が混じった無機質な沈黙があった。
『京都府警のタナカと申します。山本あづささんのご実家で、お間違いないでしょうか』
男の声。感情の抜け落ちた、公務員特有の抑揚のない響き。
警察。
私は無意識に、電話台の横にある鏡へ視線を走らせた。乱れた前髪を指先で直す。
「……ええ、そうですけど。あの子が、何か?」
万引きか、補導か。近所の松本さんの家の前をパトカーが通る光景が脳裏をよぎる。
『落ち着いて聞いてください。娘さんのあづささんが事故に遭われまして。現在、東山総合病院に搬送されています』
事故。
私の視線は、台所の床に転がっている洗濯カゴの、あづさのブラウスへ吸い寄せられた。くしゃくしゃになった白いレース。
「……それで? 相手の方は?」
口をついて出たのは、娘の安否ではなかった。
男は一瞬口ごもり、それから事務的に告げた。
『ご家族の方に、至急病院に来ていただきたいのです。詳しいお話はそこで』
詳しい話。
その言葉の裏にある重みを量るように、私は受話器のコードを指に巻き付け、きつく締め上げた。指先が鬱血して赤紫に変わっていく。
台所から、焦げ臭い匂いが漂い始めていた。鍋の底で、肉と野菜が炭化していく匂い。
夕飯が台無しだ。
これを作り直す手間と、病院へ行くタクシー代。頭の中でソロバンが弾かれる。
「……わかりました。主人が帰ったら、向かいます」
『山本さん、至急です。今すぐに』
男の声を遮るように、私は受話器を置いた。
ガチャン。
プラスチック同士がぶつかる硬質な音が、静まり返った家に響く。
私はそのまま動かず、じっと台所の方を見た。鍋から細く立ち上っていた白い湯気が、いつの間にか黒い煙に変わっている。
換気扇が、ブーンと鈍い音を立てて空回りしていた。
ピカッ。
窓の外が青白く裂ける。
数秒の静寂の後、腹の底を揺らすような轟音が、屋根瓦を震わせた。
私は煙のあがる鍋を見つめたまま、眉一つ動かさず、ただ奥歯をギリリと噛み締めた。
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