服オタ夢の借金タワマン生活

浅野 幸

第1話 ブーツも人も出会いは突然

「オークションにさ、すっげぇ状態のいい個体が出てたわけよ。マルタン・マルジェラ初期のメンズスクエアトゥペンキブーツ。サイズはイタリアサイズ39! え? 日本サイズ24.0は男にゃ小さいって? 悪かったな、俺にはジャストサイズなんだよ。だからかな。あんまり入札者がいなくってさ。でも履き口見りゃほぼ未使用ってのはわかるし、アーカイブアイテムが高騰してる今じゃ、次出品されたときにはさらに価格が高騰すんのは目に見えてるだろ? だからもう、清水からn回目のダイブってわけよ」

「で、それおいくらなわけ?」

「二十万!」

 糸は常連客が選んだ春物のジャケットとスーツをレジに通しながら、いきおいよくそう答えた。年明けのセールが終わったこの次期の買い物客は、クリアランス狙いのまともな経済感覚の人間か、気が早いファッション好きのどちらかだ。アパレル業界は一月半ばにもなると早くも春物の第一便が届き始める。外歩きにダウンが必要なうちから薄手のカットソーを手に取る人間は、大抵真夏になると厚手のコートを予約してゆく。要するに、糸とは話の合うファッションフリークだ。

 が、それでも常連客は眉をひそめた。

「アンタ、今月もう社販の上限使い切ったって言ってなかった? 実家暮らしでもないのに、給料以上に服買ってない?」

「大丈夫大丈夫! 店長に内緒でバイト掛け持ちしてるし、住んでるのもやっすいボロアパートだし!」

「そのボロアパートの家賃も滞納してるって聞いたような」

「そんな話したっけ?」

 丁寧に不織布の袋で保護した服を、店のロゴだけが入ったシンプルなショッパーに入れてテープで留める。御出口までお持ちします。と言うときだけ声色を店員モードに切り替えて、店の前まで客を見送りに出た。服は好きでも、まともな勤め人が通う価格帯の店である。客の男も、当たり前にそれなりの所得があった。

「金に困ってもパパ活とかホストとかギャラ飲みとかはやめなさいよ。よからぬ筋に借金する羽目になって、臓器持ってかれるのが目に見えてるから」

「まぁ水道止められたら考えますかね……」

「それが冗談に聞こえないのがこわい……」

 またいらしてくださいね~、と気取らない挨拶をした糸に、客はため息を返した。


 ◇


「タイミー増やすかぁ……はぁ~買わなくても当たる宝くじとかないかな」

 遅番の勤務の日は締めの作業があるため、店を夜九時に閉めても帰りは十時過ぎになる。糸は交通費を節約するため、歌舞伎町の中を歩いて帰っていた。路上ではキャッチが次ぎの店決まっていますかと元気に声を張り上げている。女の子と酒を呑むために払える金が一円もない糸には、無縁の客引きだ。

 一億円当たったら、サンローランのスモーキングジャケットでもエルメスのマルジェラ期ヴァルーズでも、広々としたウォークインクローゼットがあるマンションでも、欲しいものが手に入るに違いない。押し入れの中に突っ張り棒を入れて、窮屈そうにかけてあるガブリエラコールガーメンツのレザージャケットやドリスヴァンノッテンのシャツも、もう少し丁寧に収納できるはずだ。壁沿いにシュークローゼットをつくって、手持ちの靴を並べておけば見栄えがする。選りすぐりの靴が並んでいるのを眺めていれば、一日退屈はしない。

 捕らぬ狸の皮算用で買ってもいない宝くじの使い道を考えながら歩いていた糸は、辻に停めてある車の鼻面に危うくぶつかりかけた。真後ろに足を引いて避けたが、バランスを崩して尻餅をつく。跳ね上げた足が、ガン! と大きな音を立てて車のバンパーに当たった。

「痛ったたた……」

「おい。テメェ、誰の車に傷つけたと思ってんだ?」

 運転席から、慌ただしくひとが降りてくる。ヴェルサーチェのストライプスーツが異様に似合わない、今どき珍しい絵に描いたようなチンピラだ。スーツがストライプならネクタイは奇をてらわずにシックな柄を選べばいいものを、レジメンタルストライプを重ねるせいで全体が縞縞のシマシマ男になってしまっている。おまけに靴は量販店の安い合皮で、尖った爪先が剥げていた。

「もったいねぇ~~~~(すみません、ぼーっとしてて)」

「副音声のほう出てンぞゴラァ!!」

「ご、ごめんなさい! でも本当に組み合わせがどうかしてて」

「謝ったら何言ってもいいわけじゃねぇんだぞ。普通に悪口じゃねぇか……修理代百万、弁償できんだろうな」

「べ、弁償!? 百万!? あるわけないでしょ、俺だって百万欲しいのに!」

「だったら体で払ってもらうしかねぇなァ?」

「いくらBL小説でもそんな雑な導入あります!? そのへんの二十代金欠ノンケがどんだけ男に需要ある世界観なんですか!?」

「何勘違いしてンだ。ケツ掘らせろなんて気色悪ィ提案するわけねぇだろ。てめぇのその貧相な体に誰が欲情すンだよBL小説じゃあるまいし」

「じゃ、じゃあ、体売るって、その、なにを……?」

 臓器を持って行かれる――常連客にかけられた言葉を思い出して、糸は青ざめた。

「お前くらい若くて薬も煙草も酒もやってなさそうな奴なら、臓器は高く売れンだよ。ちょうど明日から離島行くやつがいるから、一緒に船乗れや。定番は腎臓だな」

「い、いやだ! なんで車に傷つけてくらいで俺の腹に傷つくんなきゃいけないんだよ! 減塩生活なんてカップ麺啜って服買ってる俺にできるわけないだろ!」

「ンなこと知るか! 高血圧防いで長生きしろや! つーか、何? 服だァ?」

 シマシマ男は倒れたままの糸の胸倉を掴んだ。顔を近づけて、じろじろと全身を値踏みする。

「やめろやめろニットが伸びる伸びる伸びる!」

「へぇ、よく見りゃ高そうな服着てんじゃねぇか。金がねぇってのは嘘か?」

「大久保までの電車賃ケチってデザイナーズブランド買ってる人間だっているんだよ……っていうか、ファッションフリークって大体食事削って服買うような人間だよ」

「ただの馬鹿じゃねぇか」

 ぐうの音も出ない。

「わかったらマジで離して、ニットが、ニットが伸びる、伸びちゃうぅ……」

 一着買うのにどれだけ悩んで、どれだけの選択肢を捨ててきたかも知らないくせに――糸の頭が、カッと熱くなる。

「売ってこい」

 しかし男は、糸の頭に遠慮なく冷や水を浴びせた。それが爆発の誘因になるとも知らずに。

「は?」

「お前が着てる服、全部そこの質屋で売ってこい」

「い」

「い?」

「嫌だー! お前にこれの価値がわかるのか!? メゾンマルタンマルジェラのドライバーズニットなんて今買おうとしたらいくらすると思ってんだ! 円安ナメんなよ!? ジーンズだって古着屋に通い詰めてようやく出てきたリーバイスレッド00年代デッドストック30インチなんだぞ!? マルジェラがデザインしたって根も葉もねぇ噂が出回るくらいできの良い外側カーブのシルエットが目に入らねぇのか!?」

「何言ってるかわかんねぇよ! 高く売れるんならさっさと売って来りゃいいだろうが!」

 糸は、咄嗟に拳を握りしめた。男の手首を両手で掴み、ニットが伸びないよう自分のほうへ引き寄せる。こうなったら、ニットを脱いででもこれ以上の状態悪化を防ぐしかない、一か八か――糸はファスナーのスライダーに指をかけた。そのときだ。

「トラ」

 猫でも呼ぶような声がして、男はぴたりと動きを止めた。目の前の雑居ビルの狭い階段から、男がおりてくる。

「し、織さん。すんません、コイツが総長の車に傷を……」

 シマシマ男は急に姿勢を正して頭をさげ、糸を男の前へ突き出した。

「おい、汚い手で俺の服に触るなよシマシマのトラ!」

「うるせぇ! おとなしくしてろ!」

「嫌だね、いいから離せよ!」

 汗のついたてのひらでニットを掴んで引っ張るなど、服の寿命が一秒でも縮まる行為は許せない。糸はトラの手に噛みつくと、緩んだ隙にさっと身を翻した。

「痛っっってぇ!」

「ははっ、ざまぁみ……」

 うまくいったと油断した糸は、もうひとりの男を避け損ねてつんのめった。勢いがついていたせいで、止まりきれずに男の胸へ倒れ込む。

「ンぶへっ!」

 無様な声をあげて飛びこんだ糸は、そのまま顔をあげられなくなった。男が着ていたコートがあまりにも艶やかで、吸いつくようだったからだ。

「な、なんだ、この柔らかさと手触りは……」

 見た目を裏切る軽さに、肌触りはシルクのようななめらかさ。薄汚れたネオンの光が当たったドレープは艶を放ち、品よくしっとり落ち着きをまとっている。ずっとこうしていたくなるぬくもりに、糸はうっとりともたれかかった。

「これは……ロロ・ピアーナのビキューナ……最高級素材のコート……?」

 ヨーロッパテキスタイルブランドの頂点、名だたるメゾンがこぞって採用するロロ・ピアーナの、生産量が極めて少ないビキューナの毛で作られたロングコートである。普通に仕立てれば、百万円をくだらない。老舗メゾンの仕立てなら、さらに価値がつく。

 よく見れば、中に着ている三つ揃いも手が込んでいる。襟やカフスが手仕事であるのはもちろん、着るひとの体に沿ったつくりはおそらくビスポーク。シャツの釦は白蝶貝で、袖口は背広から飛び出しすぎないちょうどいい丈だ。スーツをフルオーダーする人はそれなりにいても、シャツまでとなると珍しい。ファッション誌がこぞって絶賛するラグジュアリーを全身で体現した、完璧なコーディネートだった。しかもそれが、とてつもなくよく似合っている。背が高いだけでなく、骨格が目でたどれるような肩、上着を着ていてもわかる胸の厚みは、スーツを着るべくして生まれた造作である。そしてその美しい肉体にふさわしい顔が、すんなりとしてやや長い首の先に構えていた。

 織、というらしい男は、コートの前身頃についた糸の涙とよだれに眉をひそめた。高い鼻梁の左右から、猛禽のような鋭い目がこちらを見下ろしている。しかし糸には、彼のその目つきがちっとも苦痛ではなかった。素晴らしい仕立ての服を見ていられるのなら、ちょっとやそっと冷たくされたってちっとも心は痛まない。

「テメェ、織さんに何しやがる!」

 しかし残念なことに、すぐシマシマに引き剥がされた。糸はなおも、男の衣服に目を凝らした。スーツは端整なラペルしか見えないが、こちらも上等な布地だ。綾織りのシルクのネクタイには、緑と灰の二色の細かい正方形が行儀良く交互に並ぶ。よく見れば、間に「H」の文字が混じっていた。エルメスのシルクツイルネクタイだ。織は嫌味なくそれを身につけている。

 熱い視線に、織は後ろへ一歩、よろめく。なんなんだ、お前は。とつぶやくように言ったのが聞こえた気がした。

「そいつを車に乗せろ」

「え? は、はい!」

 トラは一瞬、驚いた顔をしたものの、言われるままに従った。糸の体はあらがういとまもなく、黒塗りのセダンの後部座席へ押し込まれる。

「は!? なんだよ、腎臓なら売らねぇぞ!?」

「誰がお前の貧相な腎臓などほしいと言った? 金がねぇならセックスでもして弁償してもらうしかねぇだろうが」

「おい聞いたかシマシマのトラ。お前の上司がケツ掘らせろなんて気色悪ィ提案してきたぞ」

「黙れクソガキ」

「二十五だわ!!」

 トラが運転席に、織がリアシートにおさまると、間もなく車は薄暗い道を滑り出した。このあたりはケバケバしいネオンは少なく、黄ばんだ蛍光灯の袖看板や軒燈の下に控えめに屋号を出した小さな店がひしめいている。昼間でもあまり陽光が当たらず、人通りは限られた。物見遊山や迷いついたひとを拒む街並みで、どの店も通りから中を覗けないよう間口が狭い。おまけに、ここを訪れたことを知られたくないひとが多い一帯だ。攫われてもまず、助けは期待できない。

 車内の静けさが、糸を現実に引き戻した。このままどこかへ連れてゆかれて、犯された挙げ句、殺されるかもしれないのだという恐怖が時間を追って迫ってくる。明日のシフトや、取り寄せてある春物や、明後日には届くマルジェラのブーツのことが頭を巡った。

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