感悟の聖像
火之元 ノヒト
感悟の聖像
狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは、理性以外のあらゆる物を失った人のことである。
これは、統合政府が掲げる憲法の前文であり、全市民が暗唱を義務付けられている一節だった。私の名は、理性省に所属する一介の局員である。そして、私こそがこの定義における完璧な「狂人」であると自負している。
私の朝は、最適化された栄養素の摂取から始まる。味覚という非合理な感覚に惑わされぬよう、食事はすべて無味無臭のペースト状だ。通勤電車では、窓の外の風景など見ない。それは感性を刺激する有害な情報にすぎない。代わりに私は、超小型スクリーンに映し出される数字の羅列――最新の人口動態と資源配分の最適解――を眺め、論理的思考を維持する。
職場である理性省は、巨大な純白の立方体だ。ここでは、すべての決定が純粋な論理に基づいて下される。かつて世界を破滅寸前に追いやった戦争や紛争は、すべて感情や未熟な悟性が原因であったと結論付けられている。怒り、悲しみ、喜び、愛。それらはすべて、計算を狂わせるノイズであり、徹底的に排除されるべきものとされた。伝統的支配も、カリスマ的支配も、感情に訴えかける野蛮な時代の遺物として歴史の教科書にのみ存在する。
私の主な任務は、市民の理性レベルの最終判定だ。判定室の中央には、黒曜石のような台座が鎮座している。被験者がその前に立つと、立体映像が投影される。我々はそれを「感悟の聖像」と呼んでいた。
聖像は、旧時代に「芸術」と呼ばれたもののデータを再構成したものだ。夕焼け、赤ん坊の微笑み、打ち寄せる波、そして、恋人たちの抱擁。被験者は、これらを前にして、脳波、心拍数、皮膚電気反応に一切の変化を示さないことを証明せねばならない。わずかでも感性の揺らぎを検知されれば、即座に「再教育センター」行きだ。
「次の方、どうぞ」
私が無機質な声で告げると、一人の青年が部屋に入ってきた。彼はエリートコースを歩んできた有望株のはずだった。聖像が次々と映し出される。彼は微動だにしない。検査機器の針も、完全に沈黙している。
(よろしい。合格だ)
そう判定を下そうとした瞬間だった。最後の聖像――母親が子供を抱きしめる映像――が映し出された時、彼の瞳孔が、計測不能なほど微細に、だが確実に収縮したのを、私は見逃さなかった。
ブザーが鳴り響き、白い防護服の男たちが彼を連行していく。青年は何も言わず、ただ虚空を見つめていた。私には彼の思考が理解できなかった。なぜ、メモリの断片にすぎないものに、反応してしまったのか。非合理的極まりない。
ある日の午後、私は管理生殖部門から生まれた新世代の子供たちの教育施設を視察した。彼らは、生まれながらにして感情を抑制され、純粋な論理思考のみを教え込まれている、いわば狂人のエリート候補生だ。
プログラムは完璧に進んでいた。子供たちは、複雑な数式を解き、立体パズルを驚くべき速さで完成させていく。だが、私は一人だけ、奇妙な行動をとる子供に気づいた。
その子供は、教育プログラムを無視し、手元のブロックをひたすら同じ形に積み上げては、崩し、また積み上げるという行為を繰り返していた。論理的には完全に無意味な行為だ。
「何をしていますか?」
私が問いかけると、子供は顔を上げた。その瞳には、私が久しく見たことのない光が宿っていた。
「同じことをしているのに、いつも違う音がするんです。面白いから」
狂気の定義を思い出す。「狂気とは、同じことを繰り返しながら、異なる結果を期待すること」。この子供の行為は、まさにそれではないか。しかし、彼の表情は、旧時代の記録映像で見た「喜び」という感情に酷似していた。
私は、自分の思考回路に生じた微細なノイズに気づいた。あの子供の存在が、私の完璧な論理体系にさざ波を立てている。これを放置することは、システム全体の汚染に繋がりかねない。私は自身の完全性を再証明する必要があると感じた。
その夜、私は一人、判定室に残った。そして、被験者が立つ位置に、自ら立ったのだ。
「感悟の聖像、シークエンス開始。感度レベル最大」
私は、通常は使用されない最高感度でテストを開始した。目の前に次々と映像が浮かび上がる。燃えるような夕焼け。屈託なく笑う赤ん坊。砕け散る波濤。抱き合う男女。
私の生体モニターに映し出されるグラフは、死んだように静止したまま、一本の直線を描き続けている。脳波も、心拍も、完璧に凪いでいる。
(そうだ。これこそが私だ。完璧な理性。真の狂人だ)
論理的な満足感に浸り、すべてのシークエンスが終了した。静寂が戻る。私は台座から降り、ふと、磨き上げられた黒曜石の表面に映る自分の姿に目をやった。
そこにいたのは、能面のように無表情な女だった。ガラス玉のような瞳は、何の光も映していない。それは、生命の気配が欠落した、ただの精巧な人形だった。
その瞬間だった。
ピィッ、と甲高い電子音が静寂を切り裂いた。見ると、私の生体モニターの、あの完璧な直線に、たった一つだけ、鋭いスパイク波形が記録されていた。
システムが、冷たい合成音声で判定を告げる。
「――異常を検知。感情反応を記録しました」
私は凍りついた。夕焼けにも、赤ん坊にも、愛にも反応しなかった私が、いったい何に反応したというのだ。
答えは、目の前にあった。私は、黒曜石に映る、理性以外のすべてを失った自分自身の姿を見て、計測不能なほどの恐怖を感じてしまったのだ。
けたたましい警報音が鳴り響き、判定室の重い扉がロックされる音がした。私を「再教育」するために、白い防護服の男たちが、すぐそこまで来ている。
感悟の聖像 火之元 ノヒト @tata369
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます