第13話 幼き皇子の散歩

ヴェルドラント帝国の宮殿、その広大な敷地の東翼には、皇族の子女たちが暮らす居住区がある。白亜の回廊と美しい庭園に囲まれたこの区画は、玉座の間や軍事施設がある中央区画とは異なり、穏やかで静謐な空気に満ちていた。午後の柔らかな日差しが、大理石の床に幾何学的な影を落とし、遠くから聞こえる噴水の水音が、心地よい音色となって響いている。


その回廊を、小さな足音が軽やかに響いていた。齢六歳の少年、ルーカス・フォン・ヴェルザリア。彼は、ヴェルドラント帝国第十三代皇帝ゼルヴァスの息子であり、側室イザベラが生んだ皇子である。栗色の髪を短く整えられ、その瞳は父譲りの赤みがかった琥珀色をしている。まだ幼い顔立ちには、無邪気な笑顔が浮かんでおり、その姿は、玉座の間で威厳を放つ父とは対照的に、ごく普通の子供のようであった。


「ヒルダ、見て! あそこに蝶々がいるよ!」


ルーカスは、庭園の花壇に舞う一匹の蝶を指差して、興奮した様子で叫んだ。その声は、回廊全体に響き渡り、通りかかった侍女たちが微笑ましそうに振り返る。


「ルーカス様、あまり大きな声を出してはいけません。他の方のご迷惑になりますよ」


彼の後ろから、穏やかな声が聞こえた。それは、ルーカスの世話係を務めるメイド、ヒルダである。彼女は十九歳の若い女性であり、長い金髪を後ろで編み込み、清潔なメイド服に身を包んでいる。その顔立ちは整っており、青い瞳には知性と優しさが宿っていた。ヒルダは、帝国北部の男爵家の長女として生まれたが、家が傾いたために、宮殿にメイドとして出されることになった。しかし、彼女の教養と品格は、生まれの良さを物語っており、その働きぶりは宮殿内でも高く評価されていた。そして、彼女は皇帝の実子であるルーカスの担当者に抜擢されたのである。


「ごめんなさい、ヒルダ。でも、蝶々ってすごく綺麗だよね!」


ルーカスは、少しだけ声を小さくしながら、それでも興奮を隠せない様子で言った。ヒルダは、その姿を微笑ましく見つめながら、彼の手を優しく握った。


「そうですね、ルーカス様。あの蝶は、春の妖精と呼ばれる種類ですよ。とても珍しい蝶なのです」


ヒルダの言葉に、ルーカスの目がさらに輝いた。彼は、まだ幼いながらも、知識欲が旺盛であり、ヒルダの話をいつも熱心に聞いていた。


二人は、ゆっくりと庭園を散歩し続けた。庭園には、色とりどりの花が咲き誇り、その香りが風に乗って運ばれてくる。ルーカスは、花を一つ一つ眺めながら、ヒルダに名前を尋ねた。ヒルダは、その度に丁寧に答え、時には花にまつわる伝説や物語を語って聞かせた。ルーカスは、その話に夢中になり、時折笑い声を上げていた。


しばらく歩いた後、ルーカスは噴水のそばのベンチに座り、息を整えた。ヒルダは、彼の隣に座り、持参していた水筒から水を注ぎ、ルーカスに渡した。


「ありがとう、ヒルダ」


ルーカスは、水を一口飲み、そして、ふと何かを思い出したように、ヒルダに尋ねた。


「ねえ、ヒルダ。僕のお母様は、どうして毎晩、皇后様に呼び出されているの?」


その質問に、ヒルダは一瞬、動きを止めた。彼女の表情には、わずかな困惑が浮かんだが、すぐにそれを消し去り、穏やかな笑みを浮かべた。


「それは……皇后様が、お母様といろいろなお話をされているのですよ、ルーカス様」


ヒルダの言葉は、慎重に選ばれていた。彼女は、ルーカスの母であるイザベラが、毎晩、皇后マリエッタに呼び出されているという事実を知っていた。そして、その理由も、彼女は理解していた。それは、帝国の宮廷において古くから続く「閨の盟約」と呼ばれる慣習に関係している。


閨の盟約。それは、皇帝の正室である皇后が、側室たちを管理し、その序列を明確にするための、秘められた儀式であった。側室たちは、定期的に皇后の元へ呼び出され、そこで様々な「教育」を受ける。それは、宮廷での立ち居振る舞いであったり、皇帝への奉仕の方法であったり、あるいは、時には屈辱的な命令に従うことを強いられることもあった。皇后マリエッタは、その権力を背景に、側室たちを支配し、自らの地位を守ろうとしていた。


しかし、そのような事実を、まだ六歳のルーカスに伝えることはできなかった。ヒルダは、彼の無邪気さを守りたかった。少なくとも、彼がもう少し成長するまでは。


「どんなお話をしているの?」


ルーカスは、純粋な好奇心から尋ねた。ヒルダは、少し考え、そして答えた。


「えっと……宮廷での礼儀作法や、他の国の貴族の方々とのお付き合いの仕方などを、教えていただいているのですよ。お母様も、皇后様から多くのことを学んでいらっしゃるのです」


「ふーん……。お母様は、毎晩遅くまで呼ばれているけど、大変そうだね」


ルーカスは、少し心配そうに呟いた。ヒルダは、その言葉に胸が痛んだ。イザベラは、確かに大変な思いをしていた。しかし、それをルーカスに伝えることはできなかった。


「お母様は、とても頑張っていらっしゃいますよ、ルーカス様。そして、ルーカス様のことを、とても愛していらっしゃいます」


ヒルダの言葉に、ルーカスは笑顔を浮かべた。


「うん! 僕もお母様が大好きだよ!」


その無邪気な笑顔に、ヒルダは心の中で安堵した。彼女は、ルーカスがこの複雑な宮廷の中で、できるだけ長く、その無邪気さを保ち続けられるよう、精一杯守ろうと決意していた。


二人は、再び立ち上がり、庭園を散歩し続けた。夕日が西に傾き始め、空がオレンジ色に染まっていく。ルーカスは、その美しい光景に見とれながら、ヒルダの手をしっかりと握っていた。


宮殿の奥深くでは、帝国の未来を左右する会議が行われ、エリシア公国の悲劇や未知の敵の脅威について議論されている。しかし、この庭園では、幼い皇子と彼を守るメイドが、平和な時間を過ごしていた。それは、帝国の日常の一部であり、そして、やがて失われるかもしれない、儚い平穏でもあった。

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