第19話
傷害罪で捕らえた老人は林涼太の轢き逃げ事件にも関与していると思われ、警視庁に護送し捜査一課が取り調べが始まった。だが、どうにも老人の言動は要領を得ず、取り調べを担当しているベテラン刑事は煙草を蒸かし苛立たせながら有限の時間と格闘していた。
「廃寺にあった酒瓶を調べてください」
廃寺近くの病院で左腕の傷の手当を受けながら、嵐橘和人は幼馴染みの橋田宗次郎に言葉を発した。
「かの老人は俺の推測だと、言動といいアヘン中毒者だと考えられます。廃寺では密造の痕跡は見当たらなかったですが、墓場一帯のケシの量を鑑みるに老人は何らかの方法で製造し酒瓶に入れて飲んでいる筈です」
「そうだな、入手経路が気になる。老人一人の犯行とは思えんし組織的な犯行か、もしくは高木が関与しているかも、だろ?」
「うーん、どうなんでしょう。俺の知っている高木さんは薬物に手を出していませんでした。まぁ、あくまでも昔の高木誠を俺が知っている範囲で、ですが」
手当が終わり、捲っていた左腕の袖を直しながら和人は首を微かに傾げた。
「十年も経っていりゃ人間誰でも変わっている。特に大きな出来事を経験した奴はな。変わらねぇ奴なんざいないさ。そうだろ? 物書きさんよ」
その筆頭が何を隠そう和人本人。当の和人は幼馴染みに嫌味たらしく言われ苦虫を噛んだ。
「そうですね。十年経った今でも当時となんら風貌は変わっていなかったですが、中身は変わっているのでしょう。この十年姿を隠しながら、様々な事件に関わっているのかもしれませんしね」
座っていたスツールから立ち上がり、手当をした医者に礼を言って宗次郎に預けていたコートを受け取った。
傷は大量に血が出ていた割に掠り傷程度だったが、錆びた包丁が凶器だったこともあり破傷風のワクチン接種した。
日本における破傷風の致死量は一九五〇年時点では八一,四%にも達し、破傷風のワクチン予防接種は一九五二年に破傷風トキソイドワクチンが導入されて、一九六八年から破傷風ワクチンの定期接種が広く接種されるようになった。
「昔っから色々事件に関わっているんだったら、よっぽど証拠が残されていないと、とっ捕まえるの大変だな」
「それは刑事さん方に手腕を振ってもらいましょうかね」
今度は和人がイヤミったらしく言い、医者に会釈すると二人は病室を出る。
「刑事さん方って、お前なぁ」
宗次郎は大きく息を吐いた。
「和、これからどうする気だ? 八王子の廃寺は今捜査して立ち入り禁止だし、石塚晋二郎と思しき人物はお縄になった。お前の出番は無いぞ」
「そう言って俺がこの件から手を引くと思っているんですか? まだ橋本さんの行方も分かっていないんですよ」
宗次郎は両手を顔の位置まで上げると、降参のポーズをとった。
「そもそも白石信子さんの自死からして疑問は残っているんです。警察が自殺と断定したのは賛同しますが、それにしても現場に不可思議な点はありました」
「ああ、まるで殺人現場に見せ掛けた糸のことだろう? 異様な光景だったな」
現場に張られた赤い糸。
玄関ドアのドアノブから部屋の中央に伸び裸電球を通り、信子の首に幾重にも巻き付いていた。それはまるで第三者の関与を疑われても仕方ない情景であったが、警察はそれを否定。白石信子はロープで首を吊る自殺と断定された。
「赤い糸――何の意味があるんだ?」
「最初はその糸を細工して白石晃さんが帰宅時、ドアを開けることによって糸がドアに引っ張られ信子さんの首に赤い糸が締まる、と考えましたが。現場を見ても首に糸の痕は無く、ロープで首が締まっている索条痕だけがありました。それに死亡時刻が違います」
「ああ、そうだ。自死によるものっていう決定打は死亡時刻。和が心肺蘇生を試みたと聞いているが、お前自身が一番分かっているだろ」
コクリと和人は頷いた。
「赤い糸は我々警察のミスリードを誘うアイテムってことだな。そこからもしかしたら高木誠が関わっている、と――」
「いえ、赤い糸はミスリードのアイテムではありません。それに高木さんは信子さん自死の件には関わっていないと思いますよ。関わっているのは白石晃さんから」
和人は右手を顎に添えた。
静かな病院の廊下を二人は並んで歩く。コツコツコツと二人分の革靴の足音が響いた。
「詳しくは、もう信子さんも晃さんもいらっしゃらないので真相は分かりませんが、もしかしたら晃さんへの信子さんからの最後のメッセージだったのではないでしょうか」
「そうなると俺らじゃ分からねぇ問題だな」
ええ――和人は小さく同意した。
「俺たちには何の変哲もない赤い糸でしたが、晃さんへの信子さんからの最期の言葉だったのではないでしょうか」
胸が締め付けられる気分になり、和人は無意識に胸に右手をやった。
「勝手な憶測ですがね。晃さんは信子さんを本当に愛していらっしゃった。それは信子さん自身も伝わっていたはずです」
「だからって、まさか運命の赤い糸だって言うんじゃねぇよな?」
「そんなこと言いませんよ。むしろ、宗次郎の口から運命の赤い糸が出てくるとは思いませんでした」
宗次郎は背が高く、幼少時から柔道をしているからガタイが良い。多少のガサツさも見た目通りにあるものの、その反面情に脆くロマンチストの部分も持ち合わせていた侠気ある人間だ。
宗次郎の口から『運命の赤い糸』とワードが上がり、自分で言っておいて自分にダメージを喰らい壁に顔を向けて赤面した。
『運命の赤い糸』の起源は中国の唐の時代にまで遡る。『続玄怪録』にある、神様が男女の足に赤い縄を結んだという物語が元となっており、中国から発した伝説は東アジアで広く信じられている。
「でも、宗次郎の言う運命の赤い糸も一理あるのかも知れませんね。願わくば、あの世で幸せになっていてほしいものです」
和人は寂しそうに微笑んだ。
「それで――」
沈んだ空気を払い除けるようにして、和人は宗次郎を見た。幼馴染みはもう刑事の顔をしている。
「断られるのを承知で聞きますが、石塚晋二郎氏と思われる老人と面会はできるでしょうか?」
「駄目だな」
即答が返ってきた。
「それじゃ、俺は涼太の所にいるんで何か新しい情報があったら連絡をください」
ああ――あっさりと聞き分けた和人に毒気を抜かされ、すぐさま返答ができなかった。
病院の出入り口には若井が運転する車両が止まっていた。
外へ出た二人を見止めた若井は車両から降りると、後部座席のドアを開けた。
「先生、先輩、お疲れ様です。怪我の具合はいかがですか?」
「ありがとうございます。掠り傷程度で済んでいました」
「それは良かったです」
「和を▲▲総合病院まで送ってやってくれ」
「先輩はどうするんです?」
「俺は廃寺の捜査に加わる。若井もこいつを送ったら廃寺に来い」
「了解しました。ささ、先生乗ってください」
総合病院に着くまで、若井による嵐橘和人作品の考察を強制的に聞かされたが、根が真面目な和人は、こう考えている読者もいるんだな――と感心しながら若井のマシンガントークに付き合った。サイン会や表に出ない和人には新鮮で貴重な時間になった。
▲▲総合病院に到着した車両は和人を下ろし速やかに八王子の廃寺へ向かった。
集中治療室の林涼太の容態は変わらず、いつ目覚めるか分からない。
母親の麗子はたった一日でげっそりと痩せ衰えてしまっていた。代わりに涼太を見ている、と麗子を一端自宅に帰らせ、和人はベット脇のスツールに座った。
昨日は分からなかった顔の痣が、一部大きく青紫に変色してしまっている。話に聞いているのは轢き逃げ事故とだけだが、こうして肉親に近い被害者の症状を目の当たりにすると事故の凄惨さが浮き彫りになっていた。複雑な感情が無限に溢れ出て、あの老人への憎悪を隠し通せる自信がなくなっていた。
それに。
このまま起きなかったらどうしよう、とか最悪なパターンばかりが頭を支配していた。
「涼太――……」
――目を覚ましてくれ。
そう願った。
――目を覚ましてくれ、頼む。
願って叶うなら文句は言わないが、叶わないから――願うことしかできないから人間は神というありもしない存在に縋るしかないのだ。そうやって宗教にのめり込んでいく――と、目覚めない幼馴染みの傷だらけの顔を見ながら思った。
和人自身宗教というものにはとんと縁がなく過ごしてきたし、今後も関わることは無い。だが、きっと涼太の母親は神という存在を恨んでいることだろう。なにせ涼太の父親で麗子の夫は、涼太が小学一年の時分に交通事故でこの世を去っているのだ。
またしても交通事故。
麗子にとってはたまったものではない。家族が今や息子の涼太しかいないのに、その涼太がこの状態なのだから。
少しでも力になれればいいのだが――目が腫れ窶れた様子の麗子を思い浮かべた。
規則的な電子音が無機質な部屋に響く。
真っ白な空間。
看護婦が機器を扱っている微かな物音。
「か――ず――……」
俯いていた和人の耳に、か細い掠れた声が聞こえた。
「――涼太?」
へへ――とベットの中の人物が笑った気がした。
「看護婦さん、先生! 涼太が!」
和人の声に集中治療室専属の医者と看護婦が集まり、涼太に話し掛けたり医療器具を操作したりと無駄な動き無く、スピーディーに処置を始めた。
和人は邪魔にならないように集中治療室の外に出た。
胸が痛い程高鳴っている。
「涼太……」
直接会って会話をしたい。早く麗子さんに教えなければ――ドクドクと心臓が脈打つ。
「良かった――良かった、本当に……」
両手で顔を覆った。
深呼吸を数度繰り返し冷静さを取り戻した所へ、看護婦の一人が和人の元へやって来て面会を促してくれた。
「涼太」
「よぉ――和」
「ははっ、酷い顔だ」
「和こそ、珍しいじゃないか」
和人の頬を雫が一筋二筋と流れ落ちた。
「ああ――身体中、痛いや……」
小さく笑い肩が小刻みに揺れると、いたた――と呻いた。
「無理するな。今麗子さんに連絡してくるから待っていろ」
頼むよ――涼太は軽く右手を上げた。
病院の委託公衆電話を借りて林宅に連絡を入れたが、まだ時間を見ても麗子は帰宅していないだろう。入れ違いになってしまったのが悔しいが、致し方ない。また時間を開けて連絡を入れよう
――和人は受話器を置いて、涼太の元に戻った。
集中治療室に戻ると、丁度一般病棟に移動している所だった。
「母さんと連絡取れた?」
「いや、済まない。疲れている様子だったから、少し前に自宅に帰したばかりで連絡つかなかった。暫くしたら、また電話するよ」
「よろしく」
「ああ」
小さく息を吐いて涼太は白い天井を見た。
「昨日の今日だ、無理はするなよ」
「それじゃ――もう一眠りさせてもらうよ」
そう言って涼太はゆっくりと目を閉じた。
林涼太の母親・麗子が▲▲総合病院に戻って来ると窶れた顔に笑みを浮かべて、和人に何度も礼を述べた。
「ありがとうね、和人君。本当にありがとう」
ほろりと安堵の涙が麗子の頬を流れた。
「無事に涼太が目覚めて良かったです」
今は目覚めただけでも僥倖であろうが、今後は身体も動くようになってきたらリハビリが始まる。どれだけ脳に支障が出ているかはまだ分からないが、麗子も涼太本人もこれから大変になるだろう。
和人は、出来る限りの手伝います――と申し出て退室した。
行きは若井の運転する車両で病院に来たが、よく考えてみれば病院に行く前に家に立ち寄れば良かった、と包丁で破れてしまった左腕を見た。薄茶色のトレンチコートにベットリと赤いシミができてしまっている。このまま長時間電車に乗車するのは憚れた。
仕方ない、タクシーで帰るか――病院の受付でタクシー営業所に連絡を頼むと、快く引き受けてくれた。法整備されたとは言え、まだ白タクが走っている。外でタクシーを掴まえるのはリスクがあった。
新宿から八王子までの長い道程を走っている間、和人は腕を組みながら廃寺の情景を思い起こす。
朽ちた門扉を潜ると視界一面の赤い花が広がり、風に揺れる様はまるで幽玄の世界に迷い込んだような不思議な感覚に陥った。その花がアヘンの材料になるものではなかったら、それこそ称賛されるべき光景だったかもしれない。どの道ハカマオニゲシが大量に咲いている時点で人間の手によって植えられたのは間違いない。それが高木誠の手によってか、それとも石塚晋二郎の手によってかは問題ではない。
咲いていること自体が問題なのだ。
ハカマオニゲシならば、今頃抜き取られているか、もしくは焼き払われているか――。
こう考えると――和人は思う。
――なんの役にも立っていないな……。
深い息を吐いた。
運転手がチラリとインナーミラーで和人を見たが、何を言うでもなく運転に専念した。このタクシーは当たりだな――乗客の様子を伺って珍しく話し掛けないでいてくれる。
――まぁ、話し掛けるなって雰囲気出してるからな。
病院からの乗車で腕組んで難しそうな顔していれば、誰だって話し掛けづらいだろう。
――今はありがたい。
再び思慮の波に飲まれる。
今の問題は、橋本鶴子の行方だ。
高木が『預かっている』だけを残している。ただそれだけ。
どこにいる、というヒントもないから捜しようもない。
音沙汰がない。
どういうことなのか。
目を瞑る。
高木の潜伏先は不明。
『預かっている』とだけの封書。
分かっていることは――分からないこと。
過去の事件を洗っても、自宅に行っても手掛りは無かった。
――あと考えられるのは――……。
目を瞑ったまま顎に右手を添えた。
――考えられるのは、なんだ?
分かっている居場所。
目を開けた。
――そうか。
和人は運転手に行き先の変更を伝えた。
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