第8話 レモン彗星

「一度きりなんです」

星出ほしでさんは、コーヒーカップを両手で包んで言った。

六十代後半、グレーのセーターを着た女性。カフェには週に二度ほど来る常連客だ。

「一度きり?」

笑美が首を傾げた。

「レモン彗星です。今月の21日がピーク」

星出さんが、持っていた天文雑誌を見せてくれた。

「きれいな彗星ですね」

「ええ。でも、これが最初で最後なんです」

「最初で最後?」

「レモン彗星は、1300年周期なんです」

星出さんが静かに言った。

「1300年...」

僕は図面を描いていた手を止めた。

「前回、地球に来たのは平安時代。次に来るのは、3300年くらい」

「そんなに...」

「つまり、人間の一生では、絶対に二度見られない」

星出さんは窓の外を見た。

「今この瞬間しか、見られないんです」


その日の夜、閉店後。

笑美が言った。

「1300年周期、か」

「すごいよね」

僕はコーヒーを飲んだ。

「平安時代の人も見た星を、今、僕たちが見られる」

「そして次は、1300年後の人が見る」

笑美が窓の外を見た。

「私たちは、その繋がりの一瞬なんだね」

「うん」

「星出さん、見たいんだろうね」

「見たいんだろうね」

でも、レモン彗星は四等星。都会では見えない。

それに、21日の夕方18時頃から19時くらいまで、わずかな時間しか見られない。西の空、地平線近く。

「条件、厳しいね」

笑美が呟いた。

「時間も場所も限られてる」

「本当に『今しかない』んだね」


次の日、星出さんがまたカフェに来た。

「星出さん」

僕は声をかけた。

「レモン彗星、見に行きませんか?」

「え?」

「21日の夕方、一緒に」

「でも...」

星出さんが困ったように笑った。

「18時から19時くらいしか見られないって、雑誌に書いてあって。それに西の空で、すぐ沈んじゃうって」

「だから、行かないと」

僕は言った。

「暗い場所で、西の空が開けた場所。そこに18時までに着かないといけない」

「そんな...私、もう年で。そんな時間に遠くまで...」

「大丈夫です。15時半に出発すれば間に合います」

「でも、お仕事が...」

「21日、休みます」

僕は笑った。

「1300年に一度しか見られないんですから」

星出さんの目が、潤んだ。

「ありがとうございます」


10月21日。

午後3時半。僕と笑美は星出さんを車に乗せて、郊外へ向かった。

「天気、大丈夫かな」

笑美が空を見上げた。

雲が少しある。

「大丈夫」

僕は言った。

「きっと見られる」

街の明かりから離れていく。

山道を登る。

「こんな場所、一人じゃ来られません」

星出さんが言った。

「18時まで、あと2時間」

僕は時計を見た。

一時間ほど走って、開けた場所に着いた。

展望台のような、広い駐車スペース。西側が開けている。

「ここです」

車を降りると、風が冷たかった。

「ここなら、西の空が見えます」

星出さんが西を見た。

まだ明るい空。でも、だんだん日が傾いてきている。

「あと、1時間半」

僕たちは、車のそばで待った。

笑美が魔法瓶からコーヒーを注いでくれる。

「星出さん、なんでレモン彗星、そんなに見たかったんですか?」

笑美が聞いた。

「それが...」

星出さんがコーヒーを一口飲んだ。

「最近、気づいたんです。私、ずっと先延ばしにしてきたって」

「先延ばし?」

「やりたいこと、行きたい場所、会いたい人。『また今度』『いつか』って、ずっと言ってきた」

星出さんは空を見上げた。

「でも、レモン彗星は『また今度』がない。今しか見られない」

「そうですね」

「それで思ったんです。人生も同じだって」

星出さんが微笑んだ。

「『いつか』なんてない。今この瞬間しかないんだって」


午後5時半。

空が、だんだん暗くなってきた。

西の空に、オレンジ色の夕焼け。

「そろそろかな」

僕は双眼鏡を構えた。

「18時まで、あと30分」

「見えますか?」

星出さんが緊張した声で聞いた。

「まだです。空が明るい」

10分。

20分。

午後5時50分。

日が沈んで、西の空が少し暗くなった。

「そろそろ...」

僕は双眼鏡を覗いた。

西の空、地平線近く。

「あ」

「見えた?」

「見えます。ぼんやりと」

星出さんに双眼鏡を渡した。

「あの辺りです」

星出さんが、双眼鏡を覗いた。

「あ...」

小さな声。

「見えました?」

「はい...ぼんやりと。尾が...」

星出さんが双眼鏡から目を離して、涙を拭った。

「見えた。本当に見えた」

「良かったです」

笑美も双眼鏡を覗いた。

「本当だ。淡い光。尾が伸びてる」

僕も見た。

淡い光。長い尾。

でも、だんだん地平線に近づいていく。

「でも、まだ見えますね」

星出さんが言った。

「はい。19時くらいまでは見られると思います」

僕たちは、交代で双眼鏡を覗いた。

レモン彗星。

1300年の旅をしてきた、光。

時々、双眼鏡を下ろして、肉眼でも西の空を見た。

「肉眼ではほとんど見えないですね」

「四等星ですから」

「でも、そこにあるんですよね」

星出さんが言った。

「はい。見えなくても、そこにあります」

午後6時半。

空はすっかり暗くなった。

レモン彗星は、まだ双眼鏡で見えている。

「きれい...」

星出さんが何度も呟いた。

午後7時。

「そろそろ、見えなくなりそうです」

僕は双眼鏡を覗きながら言った。

地平線に近づいて、だんだん淡くなっていく。

「最後に、もう一度」

星出さんが双眼鏡を受け取った。

じっと覗いて、それから双眼鏡を下ろした。

「ありがとう」

星出さんが、西の空に向かって呟いた。

「1300年、旅してきてくれて。ありがとう」

午後7時10分。

レモン彗星は、もう見えなくなった。

西の空は、すっかり暗い。

「終わっちゃった...」

星出さんが呟いた。

「でも、見られました」

「はい」

星出さんは西の空を見つめた。

「平安時代の人も、これを見たんですね」

「はい。1300年前」

「そして、1300年後の人も、これを見る」

「そうです」

「でも、私たちは、今しか見られなかった」

星出さんは、もう一度西の空を見た。

「だから、今、ここにいることが、大切なんですね」

「そうです」

「ありがとうございました」

星出さんが深く頭を下げた。

「来て良かった。本当に」


帰り道、車の中で。

星出さんが言った。

「生方さん、笑美さん」

「はい」

「実は、やりたいことがあるんです」

「何ですか?」

「家の屋上を、星が見られる場所にしたいんです」

星出さんが言った。

「夫が作った天体望遠鏡が、ずっとそのままで。使い方も分からないし、一人じゃ怖くて」

「屋上...」

「でも、今日、彗星を見て思ったんです。また星を見たいって。それに、誰かと一緒に見たいって」

星出さんが微笑んだ。

「近所の人たちにも、見せてあげたい。レモン彗星は終わっちゃうけど、他の星はこれからも見られるから」

「いいですね」

僕は言った。

「屋上、見せてもらえますか?」

「はい。お願いします」


次の週末。

僕は星出さんの家の屋上にいた。

二階建ての一軒家。屋上には、大きな天体望遠鏡がカバーを被って置かれていた。

「ご主人の望遠鏡ですか」

「はい。夫が大切にしてたんです」

星出さんが望遠鏡に触れた。

「でも、五年間、ずっとそのままで」

僕は屋上を見回した。

広さは十畳くらい。周りには低い手すり。

「ここを、みんなで星が見られる場所にしましょう」

「みんなで?」

「はい。ベンチを置いて、望遠鏡を整備して。星出さんが、先生になるんです」

「私が?」

「今日から勉強しましょう。望遠鏡の使い方、星の見つけ方」

星出さんが驚いた顔をした。

「でも、私、もう年で...」

「大丈夫です。『いつか』じゃなくて、『今』始めるんでしょう?」

星出さんは、少し考えてから、頷いた。

「はい。今、始めます」


それから一ヶ月。

星出さんの屋上は、小さな天文台になった。

ベンチ、整備された望遠鏡、星座早見盤。

そして、星出さんは毎晩、星を見るようになった。

図書館で本を借りて、星の名前を覚えた。

望遠鏡の使い方も、マスターした。

「今夜、木星が見えるんです。良かったら、来ませんか?」

星出さんが、カフェに来て言った。

「行きます」

僕と笑美は、その夜、星出さんの屋上を訪ねた。

「見てください」

星出さんが望遠鏡を覗かせてくれた。

木星が、美しく輝いていた。

「すごい...」

「縞模様が見えるでしょう?」

星出さんが嬉しそうに説明した。

「それに、あそこに見える小さな点、木星の衛星です」

「星出さん、詳しくなりましたね」

「毎日勉強してます」

星出さんが笑った。

「来月から、近所の人たちにも見せてあげようと思って」

「素敵ですね」

「レモン彗星は、あの1時間ほどしか見られなかったけど、星はこれからもずっとあるから」

星出さんが空を見上げた。

「『いつか』じゃなくて、『今』見せてあげたい」


それから三ヶ月後。

星出さんの屋上天文台は、地域の人気スポットになった。

毎週金曜日、近所の人たちが集まって、星を見る。

子どもたちも来る。

「星出先生、あれは何ですか?」

「あれはオリオン座よ」

星出さんが、優しく教える。

僕と笑美も、時々参加する。

「星出さん、変わりましたね」

笑美が言った。

「そうですね」

「レモン彗星がきっかけでしたね」

「うん」

僕たちは星を見上げた。

「1300年に一度の彗星が、あの短い時間だけ見られて」

「でも、その短い時間が、星出さんの人生を変えた」

笑美が微笑んだ。

「『今しかない』って気づいたんだね」

「うん」

窓の外では、冬の星座が輝いていた。

レモン彗星は、もう見えない。

あの夕方の、わずかな時間だけ。

でも、星出さんの新しい人生は、始まったばかりだ。

今この瞬間を、大切に生きる人生が。


第八話 了

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