第27話 虹色のスペクトル
**1**
私の部屋は、私の頭の中を、そのまま具現化したような空間だ。
壁も、床も、天井も、白で統一されている。家具は、必要最低限。ベッド、机、そして、壁一面を覆う、巨大な黒板。
そこには、無駄な装飾も、感情的な色彩も、一切存在しない。
あるのはただ、ミニマルな、機能美と、静寂だけ。
その、完璧な秩序の中に、今、たった一つだけ、異物が紛れ込んでいた。
机の上に置かれた、小さな、ガラスの三角柱。
宇沢蘭から贈られた、『プリズム』。
それは、私の部屋の、厳格なモノクロームの世界で、悪目立ちするかのように、所在なげに、鎮座していた。
(……何の、役に立つのだろう)
私は、椅子に座り、その、透明な塊を、じっと見つめた。
文鎮にしては、軽すぎる。
ペーパーウェイトとしても、安定感が悪い。
ただの、ガラスの置物。生産性も、機能性も、ゼロ。
まさに、宇沢蘭という人間そのもののような、非合理の塊。
私は、ため息をつくと、読みかけの、量子力学の専門書に、視線を戻した。
集中しなければ。
私たちの「共同研究」とやらに、心を乱されている場合ではない。
私は、物理学者(フィジカ)なのだ。
だが、駄目だった。
どうしても、視界の端で、きらり、と光を反射する、あのガラスの存在が、気になってしまう。
それは、私の、整然とした思考回路に紛れ込んだ、小さな、しかし、無視できないバグのようだった。
苛立ちが、募る。
こんな、意味の分からないもので、私の集中を乱さないでほしい。
私は、プリズムを掴むと、机の引き出しの中に、仕舞い込もうとした。
これでいい。
見えなくしてしまえば、私の世界は、また、完璧な秩序を、取り戻せるはずだ。
だが、その指が、引き出しの取っ手にかかった瞬間、ぴたり、と止まった。
『素敵じゃない?』
脳裏に、あの人の、楽しそうな声が、蘇る。
夕暮れの屋上で、虹色の光に、目を細めていた、あの表情が。
私の、この、白と黒の世界に、色を、足してあげたかった、という、あの言葉が。
(……分からない)
私には、分からない。
素敵、とは、何か。美しい、とは、何か。
私にとっての、美しさとは、数式が、寸分の狂いもなく、世界の真理を記述する、その瞬間にしか、存在しないはずだった。
役に立たないものが、美しいなんて。
そんな価値観は、私の宇宙の、法則には、書かれていない。
私は、結局、プリズムを、引き出しにしまうことができなかった。
ただ、元の場所――私の、秩序ある世界の、中心――に、そっと、戻すことしか、できなかった。
まるで、解けない難問を、前にした時のような、無力感と、そして、ほんの少しの、好奇心と共に。
**2**
翌朝。
私は、珍しく、寝坊をした。
昨夜、遅くまで、プリズムのことが頭から離れず、なかなか、寝付けなかったのだ。
慌てて、ベッドから飛び起きる。
その、瞬間だった。
「……あっ」
私は、息を呑んだ。
部屋の、壁一面を覆う、黒板。
そこに、私が、何日もかけて書き連ねてきた、超弦理論に関する、複雑な数式の上に、鮮やかな、七色の光の帯が、かかっていたのだ。
虹。
それは、窓から差し込んだ、朝の太陽光が、机の上のプリズムを通り抜けて、作り出した、スペクトルだった。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
私の、モノクロの世界に、突如として現れた、鮮烈な、色彩の洪水。
私は、しばらく、その、あまりにも、美しい光景に、心を奪われ、立ち尽くしていた。
(……光の、分散)
やがて、我に返った私の頭脳は、即座に、この現象の、科学的な分析を、開始した。
白色光に見える太陽光は、実際には、様々な波長の光が、混ざり合ったものだ。
それが、プリズムという、密度の違う媒質を通り抜ける時、波長によって、屈折率が、僅かに異なる。
波長の長い、赤い光は、少ししか曲がらず、波長の短い、紫の光は、大きく曲がる。
その、屈折率の差が、光を、虹色のスペクトルへと、分解するのだ。
そうだ。
これは、魔法でも、奇跡でもない。
ただの、物理現象だ。
私が、子供の頃から、何度も、教科書で読んできた、ニュートン以来の、古典的な光学の、基本原理。
その、法則を、私は、今、目の当たりにしている。
**3**
私は、まるで、何かに、取り憑かれたかのように、一本の、チョークを手に取った。
そして、壁の黒板――虹色の光が、かかっている、まさにその場所――に、向かった。
私は、書き始めた。
この、美しい現象を、支配している、冷徹な、数式を。
まず、スネルの法則。
`n1 * sin(θ1) = n2 * sin(θ2)`
光が、異なる媒質の境界を、通過する時の、入射角と、屈折角の関係式。
次に、コーシーの分散式。
`n(λ) = A + B/λ^2 + C/λ^4 + ...`
媒質の、屈折率(n)が、光の波長(λ)に、どう依存するかを示す、関係式。
私の手が、止まらない。
チョークが、黒板の上を、滑る音だけが、静かな部屋に、響き渡る。
私の頭の中は、今、完全に、クリアだった。
昨日までの、悩みや、苛立ちが、嘘のようだ。
これだ。
これこそが、私の、世界。
分からない現象があるのなら、それを、理解できる、言語にまで、分解すればいい。
私の言語。すなわち、数式へと。
私は、夢中で、書き続けた。
虹色の、光の帯の、すぐ隣に、白い、チョークの数式が、並んでいく。
それは、とても、奇妙な光景だった。
右側には、感覚的で、情緒的で、美しい、色彩のスペクトル。
左側には、論理的で、無機質で、冷徹な、数式の羅列。
まるで、宇沢蘭と、私、そのものみたいだ。
そして、書き終えた瞬間。
私は、はっと、息を呑んだ。
(……同じ、なのか)
そうだ。
この、二つは、全く、別のものに見えて、その実、全く、同じ、一つの「真実」を、語っているのだ。
虹という、美しい現象。
そして、その虹を、成り立たせている、物理法則。
それらは、対立するものではない。
コインの、裏と表。
二つで、一つ。
どちらが、欠けても、世界は、成立しないのだ。
**4**
その時、私は、ようやく、理解した。
宇沢蘭が、私に、贈りたかったものの、本当の意味を。
彼女は、私に、ただ、美しいだけの、ガラクタを、渡したのではなかった。
彼女は、私に、私たちの、関係性そのものを、象徴する、一つの、メタファーを、贈ってくれたのだ。
混沌(カオス)のように見える、ただの白い光。
その中には、虹という、美しい秩序(コスモス)が、隠されている。
そして、その秩序は、冷たく、硬い、物理法則によって、完全に、支配されている。
混沌と、秩序。
感情と、論理。
美しさと、真実。
それらは、決して、対立するものではない。
互いが、互いを、内包し、支え合い、そして、高め合う、不可分な、パートナーなのだ。
私が、愛する、物理法則の、その、冷徹な美しさ。
それが、こんなにも、人の心を、揺さぶる、温かい、色彩を、生み出すなんて。
私は、今まで、気づかずにいた。
私は、スマートフォンを手に取ると、メッセージアプリを、開いた。
宛先は、もちろん、一人しかいない。
私は、ほんの少しだけ、照れくさい気持ちを、抑えながら、短い、メッセージを、打ち込んだ。
『プリズム、ありがとう。スペクトルが、綺麗です。……その、数式も』
送信ボタンを、押す。
既読の表示は、すぐについた。
そして、返信もまた、驚くほど、速かった。
画面に表示されたのは、たった、一つの、絵文字。
『😉』
その、ウィンクする、顔文字を見た瞬間。
私は、たまらなくなって、声を立てて、笑ってしまった。
完敗だ。
また、あの人には、敵わない。
私は、黒板の前に、もう一度、立った。
そこには、白い数式と、七色の虹が、まるで、ずっと昔から、そうであったかのように、自然に、隣り合っていた。
秩序と、混沌の、美しい、共存。
私たちの、「共同研究」は、まだ、始まったばかりだ。
その、どこまでも、不確かで、予測不能な未来が、ほんの少しだけ、楽しみだと、心の底から、そう思った。
私の、モノクロの世界に、確かに、新しい色が、一つ、加わった、朝だった。
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