第3話 赤字のパッション
**1**
会計室の空気は、いつも紙とインクの匂いがする。
私、新井結衣は、その匂いが好きだった。そこには、嘘やごまかしの入り込む余地がないからだ。数字は常に正直で、客観的な事実だけを語る。情熱や希望といった、曖昧で、コスト計算のできないファクターは、帳簿の上では何の意味も持たない。
だから、私は目の前の書類の束を、冷たい心で見つめることができた。
これは、宇沢蘭の『創造的破壊プラン』に呼応して、各クラブから暫定的に提出された予算要求書の山だ。その一枚一枚に、インクの滲みからでも伝わってくるような、熱っぽい「パッション」が満ち溢れていた。
『最新鋭VRヘッドセット 50台:1500万円』
『タンパク質構造解析用クライオ電子顕微鏡レンタル料:年間800万円』
『シェイクスピア原典研究のための大英図書館への短期留学費用:300万円』
……どれもこれも、夢のような話ばかり。
そして、そのどれもこれもが、学園の財政規模をまったく無視した、無謀な計画だった。
私は、一本の蛍光ペンを手に取った。そして、要求書の項目の中から、非現実的な数字や、費用対効果の低い計画を、一つずつ、機械的な作業で塗りつ潰していく。
赤、赤、赤。
まるで、情熱という名の病巣を、メスで切り取っていく外科医のように。
「計画なき情熱は、赤字になる」
それは私の信条であり、会計という学問が何百年もかけて証明してきた、揺るぎない真理だ。
宇沢蘭は、その真理に挑戦しようとしている。生徒たちの夢を煽り、情熱に火をつけることで、学園の財政という有限なパイを無限に膨らませることができると、本気で信じているかのように振る舞っている。
(馬鹿な女)
ペンを置いた私は、静かに目を閉じた。
彼女のやり方は、危険な麻薬と同じだ。一時的な高揚感は得られるかもしれないが、その先にあるのは、必ず破綻という名の現実だ。
その前に、誰かが止めなければならない。
感情論ではなく、数字という、誰もが認めざるを得ない事実を突きつけて。
それができるのは、この学園広しといえども、会計(アカウンタント)である私、新井結衣しかいない。
コンコン。
会計室のドアが、遠慮がちにノックされた。
「……どうぞ」
入ってきたのは、予想通りの人物だった。
会長の桜井理乃。そして、彼女に付き従うように、庶務の長谷川華奈と、風紀委員長の袴田瑞穂。
彼女たちの顔には、一様に硬い決意が浮かんでいた。どうやら、私と同じ結論に達したらしい。
「新井さん。……いえ、アカー。あなたの力が必要よ」
理乃が、まっすぐな瞳で私を見つめて言った。
その手には、彼女自身が作成したであろう、宇沢蘭のプランに対する反証データが握られている。
私は静かに頷いた。
「ええ、フィジカ。もちろん、協力するわ。あの女の描く幻想を、現実の数字で打ち砕いてあげる」
私たちの、反撃の狼煙が上がった瞬間だった。
**2**
作戦会議の場となったのは、評議会室だった。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った部屋で、私たちは円卓を囲んだ。
「まず、現状を整理しましょう」
進行役を買って出たのは、華奈だった。彼女はタブレットを操作し、壁面のディスプレイに学内SNSの分析データを表示させる。
「これが、ここ数日の学内における『予算案』関連のトピックの盛り上がりです。見ての通り、宇沢副会長のプランを支持、あるいは好意的に捉えている意見が、全体の約7割を占めています」
ディスプレイに映し出された円グラフは、衝撃的な結果を示していた。赤色で示された蘭の支持派が、青色で示された理乃の支持派を、圧倒的に凌駕している。
「そんな……」
理乃が絶句する。彼女の案は、大多数の生徒を守るためのものだったはずだ。なのに、その大多数が、自分たちを切り捨てる可能性のある蘭の案を支持している。なんという皮肉だろう。
「理由は、明白です」
瑞穂が、冷静な声で分析する。
「宇沢副会長のプランは、生徒たちに『成功すれば大きな見返りがある』という夢を見せている。一方、桜井会長の案は『失敗はしないが大きな成功もない』という現実を提示している。多くの生徒が、リスクを承知の上で、前者に賭けてみたいと思っている。……一種の集団的な熱狂状態と言えるでしょう」
「熱狂……。まるでバブル経済ね」
私が冷ややかに言うと、瑞穂は頷いた。
「その通りです、アカー。そして、バブルは必ず弾ける。その時に起きる混乱と、敗者となった生徒たちの不満は、学園の風紀を著しく乱すことになるでしょう。それを防ぐのが、風紀委員長の務めです」
「私も、これ以上の混乱は望みません」
華奈も、不安そうに眉をひそめる。
「すでに、一部のクラブ間では、コンペで勝つための派閥作りや、他のクラブの計画を探るような動きも出てきています。このままでは、生徒間の信頼関係が損なわれてしまいます」
状況は、私たちが考えていた以上に深刻だった。
蘭が放った「自己利益の最大化」という思想は、生徒たちの競争心を健全な形で刺激するのではなく、他者を蹴落としてでも自分が生き残ろうとする、醜い生存競争へと変質させつつあったのだ。
「……やはり、私たちのやり方で、彼女を止めるしかない」
理乃が、決意を固めたように言った。
「アカー、あなたには、蘭のプランがいかに財政的に無謀であるかを、客観的なデータで示してほしい。リーガ、あなたには、プランが引き起こすであろう風紀上の問題点と、学園規則との矛盾を指摘してもらいたい。セクレ、あなたは……」
「私は、皆さんの議論を整理し、評議会の場で、全生徒に分かりやすく伝えるための資料を作成します」
華奈が、理乃の言葉を引き取った。
「そして、会長の『均衡安定案』が、決して停滞ではなく、すべての生徒の可能性を守るための、積極的な『セーフティネット』なのだということを、丁寧に説明するつもりです」
それぞれの専門分野を活かした、完璧な役割分担。
物理学、会計学、法学、そして秘書学。
私たちは、それぞれの武器を手に取り、宇沢蘭という共通の「脅威」に立ち向かうための共同戦線を張ったのだ。
**3**
数日後。評議会室は、再び緊張した空気に包まれていた。
議題は、もちろん予算案の再審議だ。
「――というわけで、私の『創造的破壊プラン』こそが、この学園を次のステージへと導く、唯一の道だと確信しているわ。皆の野心に、投資を」
宇沢蘭は、まるで聴衆を前にしたカリスマ政治家のように、自信たっぷりの演説を締めくくった。その場にいた評議会メンバー以外の一般生徒たちからも、賛同の拍手が沸き起こる。蘭は、自分のプランに興味がある生徒は誰でも傍聴していい、と事前に告知していたのだ。完全に、ホームグラウンドの空気を作り上げている。
だが、私たちは動じなかった。
理乃が静かに立ち上がり、蘭に向き直る。
「副会長。あなたのプレゼンテーションは、いつもながら情熱的で、魅力的だわ。でも、あなたはいくつかの重要な『不都合な真実』から、意図的に目を逸らしている」
その言葉を合図に、私は自分のタブレットを操作し、壁面のディスプレイに用意してきたデータを映し出した。
「これは、私が宇沢副会長のプランの財務リスクを再計算した結果です」
私は、マイクの前に立ち、傍聴席の生徒たちにも聞こえるように、はっきりとした口調で説明を始めた。
「副会長の収益モデルには、先ほど会長が指摘した通り、いくつかの致命的な欠陥があります。第一に、成功事例のみを参考にした、生存者バイアス。第二に、失敗プロジェクトがもたらす損失の過小評価。第三に、生徒間の過当競争が引き起こすであろう、外部不経済の無視。これら全てを考慮してシミュレーションをやり直した結果……」
私は、一呼吸置いて、ディスプレイに最終結果を大写しにした。
そこに映し出されたのは、右肩下がりに急降下し、三年後には学園財政が完全に破綻することを示す、絶望的なグラフだった。
「……五年どころか、三年も持たずに、学園は破産します。これが、あなたの言う『創造的破壊』がもたらす、本当の未来です」
しん、と評議会室が静まり返る。
先ほどまで蘭に熱い視線を送っていた生徒たちが、今度は不安そうな顔でざわめき始めた。
「そ、そんなはずは……」
蘭の表情から、初めて余裕が消えた。
「あなたの計算は、あまりにも悲観的すぎるわ! 生徒たちの才能の力を、信じていない!」
「いいえ、私は数字を信じているだけです」
私は、蘭の感情的な反論を、冷たく切り捨てた。
「才能があっても、資金が尽きれば研究は続けられない。情熱があっても、活動の場がなくなれば意味がない。それが現実です。あなたのプランは、甘い夢を見せるだけで、その夢を実現するための土台を、根底から破壊してしまう。計画なき情熱は、こうして赤字になるのよ、宇沢蘭」
私の言葉は、蘭の胸に突き刺さる、鋭い刃となったはずだ。
だが、彼女は、私が思っていたような反応は見せなかった。
一瞬だけ顔を歪めた後、彼女は……不敵に、笑ったのだ。
**4**
「……なるほど。さすがはアカー。完璧なカウンターね」
蘭は、感心したように呟くと、ゆっくりと拍手をした。
「私のプランの弱点を、的確に突いてきた。反論のしようもないわ。見事よ」
その余裕の態度に、私は戸惑った。負けを認めている? いや、違う。これは、嵐の前の静けさだ。
案の定、蘭は悪戯っぽく片目をつぶると、こう続けた。
「でもね、新井結衣。あなたの指摘は、一つの大きな前提が間違っている」
「……何ですって?」
「あなたは、私の目的が『学園の財政を健全化すること』だと思っている。違うわ。そんな退屈なこと、私が興味を持つはずないじゃない」
蘭は、評議会室にいる全ての人間を見渡しながら、恍惚とした表情で宣言した。
「私が本当にやりたいのは、『才能の価値』を可視化することなのよ」
「才能の、価値……?」
「そう。この学園には、まだ誰にも発見されていない、磨かれていない才能の原石が、そこら中に転がっている。物理学や経済学みたいに分かりやすいものだけじゃない。誰も価値がないと思っているような、ニッチで、奇妙で、理解不能な情熱……。私は、そういうものにこそ、とんでもない『市場価値』が眠っていると信じているの」
彼女の言葉は、熱を帯びていく。それは、もはや経済学の理論ではなかった。ほとんど、信仰告白に近い、狂信的な響きがあった。
「私のコンペは、そのための触媒よ。既存の価値観を一度破壊し、カオスの中から、新しい価値が生まれる瞬間を誘発する。たとえ学園の財政が一時的に赤字になったとしても、その中から一つでも、世界を変えるような才能が生まれれば、それはお釣りがくるほどの『投資』になるじゃない!」
傍聴席の生徒たちが、再び息を呑む。
今度は、恐怖や不安からではない。蘭が語る、あまりにも壮大で、ロマンチックなビジョンに対する、畏怖と興奮からだった。
しまった、と思った。
私は、彼女の土俵で戦ってしまったのだ。
私は数字の正しさを説き、彼女は夢の素晴らしさを語る。
現実的なリスクと、無限の可能性。
人々が、どちらの物語に心を惹かれるかなんて、分かりきっていた。
「赤字のパッション、結構じゃない」
蘭は、私に向かって、挑戦的に微笑んだ。
「計算通りの未来なんて、退屈なだけ。私は、予測不能なカオスの中から生まれる、たった一つの奇跡に賭けるわ」
その瞬間、評議会室の空気は、完全に蘭の色に染め上げられた。
私たちのロジックは、彼女のパッショナリティの前に、またしても敗北しかけていた。
理乃が悔しそうに唇を噛むのが、視界の端に映った。
(……まだよ)
私は、静かに拳を握りしめた。
(まだ、終わっていない)
このまま、あの女の独壇場になんて、させてたまるものか。
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