泡蝕

をはち

泡蝕

星野哲也は、いつも調子に乗っていた。


高校の課外授業で県内の博物館を訪れた日も、彼は周囲の視線を集めることに余念がなかった。


展示室の薄暗い一角、ガラスケースもなしにむき出しで置かれたミイラの前で、


哲也はわざとらしく大袈裟な仕草を見せつけた。


「うわ、こいつ、めっちゃリアルじゃん!」


彼はミイラの干からびた顔に自分の顔を近づけ、


まるでワインの香りを楽しむソムリエのように、深く息を吸い込んだ。


「ふぁ、かぐわいぃー!」


咳き込みながらも、哲也は笑い声を上げ、クラスメイトの失笑を買った。


ミイラの周囲に漂う、ほのかに湿った土と古い布のような匂いが、彼の鼻腔にまとわりついた。


その夜、哲也は口の中に奇妙な違和感を覚えた。


歯を磨きながら、舌で口内をなぞると、まるで泡が弾けるような、微かなチリチリとした感覚が広がった。


「なんだこれ、石鹸みたいな味しね?」


鏡を覗き込むと、舌の裏と頬の内側に、薄い白い膜のようなものが広がっているのが見えた。


光を反射して、まるで濡れたガラスのようにキラキラと輝いていた。


翌日、歯科医院を訪れた哲也は、医師にその異変を訴えた。


「泡立ってる感じがするんです。なんか、変な膜みたいなのも…」


しかし、医師は口腔内を一瞥しただけで、「異常なし」と冷たく言い放った。


「ストレスか、唾液の分泌量の問題じゃない? 気にしすぎだよ、君。」


哲也は釈然としないまま帰宅したが、口の中の違和感は消えなかった。


日が経つにつれ、泡の感覚は濃密さを増した。


最初は軽やかな泡立ちだったものが、粘り気を帯び、まるで溶けた飴のように舌に絡みつくようになった。


鏡で見ると、白い膜はさらに広がり、頬の内側や歯茎の奥にまで侵食していた。


膜は半透明で、ところどころが硬く、まるで薄い蝋を塗ったような質感に変わり始めていた。


触れると、指先にざらつきが残り、感覚が鈍い。


痛みはなかったが、まるで口の中が自分のものではなくなっていくような、不気味な疎外感が哲也を襲った。


ある夜、哲也は奇妙な夢を見た。


暗闇の中で、誰かが彼の耳元で囁いていた。


「お前の口の中に、俺が住んでいる。」


声は低く、湿った布が擦れるような音を伴っていた。


目覚めた瞬間、口の中が異様に重く、泡が喉の奥まで詰まっているような感覚に襲われた。


慌てて洗面所に駆け込み、口をゆすいだが、泡は消えず、むしろ増殖するように広がった。


鏡に映る自分の顔は、どこか歪んで見えた。


頬の内側が、まるで古いキャンドルのように白濁していた。


恐怖に駆られた哲也は、専門医の診察を受けた。


検査の結果、医師は眉をひそめ、信じがたい診断を下した。


「君の口腔内の脂肪組織が…死蝋化している。」


「死蝋化?」


哲也は言葉の意味を理解できず、ただ医師の顔を見つめた。


「脂肪が金属イオンと反応して、石鹸のような物質に変わる現象だ。


通常は死体が湿潤で低酸素、かつ低温の環境に置かれたときに起こる。


だが、君の口腔内は唾液で常に湿っていて、酸素が少ない閉鎖空間だ。


条件が揃いすぎているのかもしれない。」


医師の声は淡々としていたが、その言葉は哲也の心に冷たい刃のように突き刺さった。


「つまり…俺、生きてるのに腐ってるってことですか?」


哲也の声は震えていた。


医師は答えず、ただカルテに何かを書き込んだ。


その夜、哲也は鏡の前で自分の口を凝視した。


白濁した膜は、舌や歯茎を覆い尽くし、まるで口全体が蝋で封じられたように硬化していた。


感覚はほとんどなく、舌を動かしても、まるで他人の口を借りているような違和感しかなかった。


泡は無臭で、粘り気のある液体となって喉に流れ込み、飲み込むたびに胸の奥で何かが蠢くような錯覚に襲われた。


「俺の中に…何かいる。」


哲也は呟き、鏡に映る自分の顔を見つめた。


目だけが、かつての軽薄な少年の名残を留めていた。


翌朝、哲也は自室で倒れているところを発見された。


口から溢れ出した白い泡は、床にまで滴り落ち、まるで溶けた蝋燭のように固まっていた。


顔の皮膚は、まるで仮面のように硬く白濁し、頬や顎の輪郭は不自然に滑らかだった。


目は虚ろに開いたまま、まるで何かを凝視するように固まっていた。


検死官は、哲也の口腔内を調べ、驚愕の報告をつげた。


「死蝋化が全身に広がっていた。まるで…彼の体が、生きながらにして蝋の彫刻に変わったかのようだ。」


誰も気づかなかったが、哲也の倒れていた部屋の片隅から


ミイラから漂ったあの湿った匂いが、ほのかに残っていた。


その場に居合わせたモノはそれ以降、咳が止まらないのだそうだ――

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泡蝕 をはち @kaginoo8

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