第21話 辞めるという言葉

翌週の午後。

廊下を渡る風が少し冷たくなっていた。

校庭の銀杏が色づき始めて、

風に乗って金の小片が舞っている。


教室では、進路希望調査票が配られていた。

担任の先生が淡々と説明する声。

ペンの音。

ページをめくる音。

いつも通りの光景。

それなのに、綾女の胸の奥はざわついていた。


紙に印刷された「進路希望欄」を見つめる。

目の前の文字が、遠くの風景のように霞む。


——“進学”と“就職”。

どちらを選んでも、

“外の世界”という言葉がそこに待っている。


ペンを持つ指が冷たくなる。


---


放課後。

凛花は廊下の窓際で、綾女を待っていた。

カーテン越しの光が髪の端を透かしている。

彼女の表情は、どこかいつもより静かだった。


「進路票、書いた?」


「……まだ。」


「やっぱり。」

凛花は、少し笑った。

「顔に“考えすぎてる”って書いてあった。」


綾女は窓の外を見た。

沈みかけた光が校舎の壁をオレンジ色に染めている。

「……わたし、まだ“外”が怖いのかもしれません。」


「怖くていいよ。」


「でも、みんな普通に“将来”の話をしてて。

 怖いのは、わたしだけみたいで。」


凛花は肩をすくめて、

手すりにもたれた。


「“みんな”って言葉、たぶんいちばん嘘っぽい。

 怖い子もいるし、無理して笑ってる子もいる。

 でも、あやめがそれを“見えてしまう”から、

 自分だけ取り残された気になるんだよ。」


「……それ、ずるいです。

 なんでも分かってるみたいに。」


「だって、そういう目してるもん。」


凛花が小さく笑う。

その笑顔に、綾女の胸が少し痛んだ。


「ねえ、凛花さん。

 もし……学校を辞めたら、どう思いますか。」


風が一瞬止まった。

カーテンがふわりと落ち着く。


凛花は、真顔で綾女を見つめた。


「——辞めたいの?」


綾女は目を伏せた。

「……分かりません。

 学校は嫌いじゃないです。

 でも、ここにいると、いつまでも“生徒”のままで、

 外に出る勇気が持てない気がして。」


凛花はしばらく黙っていた。

静かな沈黙。

やがて、窓から差し込む光が、

ふたりの間を切り取る。


「……あやめ。」


「はい。」


「“辞める”って言葉、

 日本語で“止める”とも書くけど、

 “留める”って意味もあるんだよ。」


「……留める?」


「うん。

 動きを止めるんじゃなくて、

 “心の位置を確かめて、そこに一度留まる”ってこと。

 それができる人って、案外少ない。」


綾女は目を細めた。

「……わたしが今、留まっている場所は……どこですかね。」


「わたしの隣。」


凛花の即答に、

綾女の胸が跳ねた。

「……そんなに簡単に言わないでください。」


「簡単じゃないよ。

 でも、確かでしょ?」


「……はい。」


---


屋上に上がると、風が強かった。

西の空が、少しずつ朱に染まっていく。

フェンス越しに見える街が、光の粒を散らしている。


凛花が空を見上げながら言った。

「“辞める”って決める前に、

 “何を続けたいか”を決めよっか。」


「続けたいこと……」


「うん。

 それを決めれば、“辞める”が怖くなくなる。」


綾女は考えた。

風の中に、いくつもの思い出が流れていく。

図書室の光、割れたレンズ、

凛花の笑い声。


そして、ゆっくり言った。


「……わたし、

 “誰かをちゃんと見ること”を続けたいです。」


凛花が頷いた。

「いいね。」


「それができるなら、

 学校じゃなくても、どこでも生きられる気がします。」


「それ、もう答え出てるじゃん。」


凛花は笑った。

でもその笑いには、どこか寂しさがあった。


「……あやめが、どこに行っても見られるように。

 わたしも、“半歩”分は後ろからついてく。」


「半歩……?」


「そう。

 支えられる距離。」


綾女は風に髪をなびかせながら、

その言葉を心の奥に刻んだ。


---


夜。

部屋の机の上に、進路希望票が置かれている。

ペンを持つ指先が震える。

“進学”にも“就職”にも丸をつけず、

下の余白に小さく書いた。


 ——“世界を見る練習を続けたい”


その一行を書き終えると、

胸の奥に静かな風が吹いた。

それは迷いではなく、

“留まる”という決意の風だった。


机の上のレンズが、

その風を受けて、小さく光った。


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