第20話 街の試練

休日の午後。

空気が乾いていて、太陽の光がやさしい。

それなのに、綾女の手のひらには汗が滲んでいた。

駅前のロータリーに立つだけで、

世界が遠くでざわざわと波を立てているように感じる。


凛花が隣にいた。

ポニーテールを揺らし、

コンビニのビニール袋を片手に持っている。

その中には小さな水筒と、

一口サイズのチョコレート。


「さあ、“街の試練”開始です」


「……名前が物騒です」


「だって実地訓練だから。

 今日は“人の波の中でも戻れるか”を試すんだよ」


「……帰りたいって言ったら?」


「“半歩下がる”で戻ればいい。

 でも、今日の目的は“半歩前に出る”こと」


凛花の笑顔は、

いつもよりも少しだけ真面目だった。

綾女は深く息を吸って、頷いた。


---


駅前の通り。

人が多い。

笑い声、話し声、信号の音。

世界が音で満ちている。

レンズの奥で光が跳ねるたび、

心臓が反射的に動いた。


「大丈夫、ここにいる」


凛花の声が背中に届く。

その一言だけで、

周囲の雑音が少し遠くなった。


ふたりは商店街へと歩き出した。

アーケードの天井から吊るされた色とりどりの旗が、

風に揺れている。

光がレンズの中で万華鏡のように回った。


「……すごい、人、多い」


「ね。でも、みんな“見てるようで見てない”よ」


「え?」


「自分の買い物とか、スマホとか。

 誰も他人をちゃんと見てない。

 あやめが怖がってる“視線”の半分は、

 実は存在してないんだ」


綾女は立ち止まり、

通り過ぎる人々を観察した。

確かに、ほとんどの人が下を向いていた。

世界は思っていたよりも“無関心”で、

それが、少しだけ救いだった。


「……そうですね。

 見られてる気がするのは、

 自分の方が“世界を意識しすぎてた”からかも」


「それも立派な気付き。

 じゃあ、ご褒美にチョコ」


凛花が袋からひとつ取り出して渡す。

小さなチョコレート。

甘さが口の中で広がると、

体の緊張が少しだけほどけた。


---


しばらく歩いたあと、

二人は商店街の突き当たりにあるガラス張りのカフェに入った。

席に着くと、綾女の視線が外に吸い寄せられた。

外の通行人が、ガラス越しに反射して映っている。

世界の輪郭と、自分の姿が重なる。


「……これ、変な感じです。

 外と中の境目が、曖昧で」


「それが“窓の試験”。

 外を見ても、内を見ても、

 どっちも壊れないことを確認するテスト。」


凛花が笑って、ストローをくるくる回した。


「外を見るとき、“誰かを見ている”って思わなくていい。

 ただ、“世界がある”って確認するだけでいいんだ。」


綾女は頷き、

窓の外に目をやる。

車。

通りすぎる人。

赤信号で立ち止まる母子。

そのすべてが、

自分を怖がっていない。


息が楽になった。


「……わたし、見れてます。」


「ね。

 あやめの目、もう光を跳ね返してない。

 ちゃんと、受け止めてる。」


「受け止める……」


「うん。

 人は、光を反射するだけじゃなくて、

 自分の中に少しだけ“影”を持ってるでしょ?

 その影ごと受け止めるのが、“見る”ってことだと思う。」


綾女はその言葉をゆっくり噛みしめた。

影を持つ世界。

それを怖がらずに見ること。

その瞬間、彼女は初めて“見る”という行為が、

“愛する”という行為と似ていることに気づいた。


---


帰り道。

日が傾き、商店街の照明が点き始めていた。

ネオンの色が、レンズの中で揺れる。

人の声が遠のき、

かわりに風が足元をなでた。


「ねえ、あやめ」


「はい。」


「今日、どれくらい“怖かった”?」


「……最初は十。今は二くらいです。」


「いいね。

 “怖さが減る”って、

 世界と握手してる証拠だから。」


「握手……」


「そう。

 手を伸ばして、相手の温度を知る。

 視線でも、それができる。」


綾女は小さく笑った。

「……凛花さん、比喩の名人ですね。」


「でしょ?

 でも今日は、本当に“できた日”だと思う。」


綾女は頷き、胸ポケットの中のハンカチを触れた。

指の下にある布の感触が、

“帰れる場所”を思い出させてくれる。


「……怖くなったら、“トン”でいいんですよね。」


「そう。

 それだけで戻れる。」


「じゃあ、“トン”しなくても戻れるようになったら?」


凛花は少し笑った。

「そのときは、“一緒に行こう”って言って。」


「どこへ?」


「世界の真ん中。

 見ても壊れない場所。」


綾女はうなずいた。

風がふたりの間をすり抜け、

夕暮れの光が街のガラスに跳ねた。


彼女の目の中で、その光が穏やかに広がる。

もう、世界は刃ではなかった。

ただ、触れられる光になっていた。



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