すくわれた死にぞこない

息苦しい田舎を振りきりたくて、高校を卒業してすぐに地元を出た。周りは大学や専門学校に進む子が多かったけれど、これ以上実家頼りに生きるのが嫌で一般企業への就職を希望した。普通科だから、特に目立った資格もないし、縁もゆかりも無い都内への就職はなかなか難しかった。それでも、何度かの就職試験の後、都内のビルの一角にある会社に営業職として採用してもらった。高卒なので、給料はそんなに良くないが、なんとか生活できるくらいのお金は貰えそうだった。リクルートスーツと少しの荷物を持って実家を出た。リュックサックとボストンバッグを抱えて、慣れない電車から降りた日のことをたまに思い出す。晴れの日でもなんでもない曇り空の下で、無邪気な私は、高いビルの群れに囲まれながら、息苦しい田舎の空気から開放された喜びを噛み締めた。


そこからの日々は、ただ無我夢中に働くだけだった。働き始めた頃は何もわからず、ひたすら無力感を味わった。それでもわからないなりに必死に頑張った。社会のことなんてなにも知らない未熟な私にとって、仕事は大変だったけれど、田舎に帰りたくない一心だけで頑張った。パンプスで靴擦れした踵に、何度も何度も絆創膏を貼り直して、ひたすら似たような毎日を繰り返した。


いつの間にか踵に血が滲まなくなって、皮膚が分厚く固くなったことに気がついたのは、働き始めて5年の月日が経った頃だった。

大学に進学した友人たちも社会人になった。数少ない友人と近況について話したときから、これまで目を逸らしていた自分の会社の歪さを感じるようになった。

共同作業なんて言葉はなく、他人の足を引っ張りながら手柄を奪い合う人間関係。営業成績が少しでも振るわなければ、物に当たりながら何時間もデスクで怒鳴る上司。サービス残業、休日出勤、有給休暇の拒否。定時にタイムカードを切った後は、薄暗い会社で仕事、仕事、仕事。家の布団より、デスクに突っ伏して寝ることの方が多い生活が続いた。体重は十キロ以上も減り、肋骨が浮き出て、目の下のクマは消えなくなった。 世間の同い年はキラキラと若さを謳歌して、豊かな人生を送っている。取引先に向かう途中、ショーウィンドウに反射した私は、真っ白なマネキンより貧相だった。それでも、そのときは、もはや自分の心がどれ程蝕まれているのかを理解する余裕なんてなかった。私は、ゲームのコンピューターに行動を支配されたモブキャラクターのように、同じ動作を繰り返す機械になった。

ある日、上司に久し振りの帰宅を許された。それでも終電で帰って、8時までには出社しなければならない。帰宅後すぐにシャワーを浴びて数十分の仮眠をとり、最寄り駅に折り返した。

「間モなく、イチ番線に○○行キノ電車が参ります。アブナイですのデ、キーロい線のウチ側にお下がりくダさい」

今日は脳みその処理が一段と遅い。音が上手く認識できない。まもなく電車が来る。それに乗れば、また地獄に行かなくてはならない。生きて地獄に行くならば、死んだほうが天国に行けるかもしれないぶん、いいのかもしれない。黄色い線の内側。内側ってどっちだ。自分が今いるのは外?内側なら線の向こうか? ただ前に進むと、足が黄色い線を越えた。なんだか周りがざわざわしているけど、何を言っているのかはわからない。パーっと電車の汽笛が鳴る。あ、これ、黄色い線の外側だったかあ。でも、もう足止まらないや。おお、ホームから落ちそうだなあ。ごめんなさい。会社の人、取引先の人、通勤途中の人、世間の人。ろくでなしが最後まで迷惑掛けてごめんなさい。でも、もう灰色の日常を独りで漂うのは無理です。


「危ないってば! 」  


グッと後ろに手を引かれる。身体が後ろに傾くと同時に、電車がいつもの何倍も強い風を巻き起こして、目の前を通り過ぎていった。

「危ないって何回も言ってんじゃん!死ぬのは勝手だけどさ、アタシの気分下げるようなことしないでよ」  

手を引いたのは若い女の子だった。灰色の日常を切り裂く、宝石のように真っ赤な唇。

電車の風に舞った長い黒髪が、蛍光灯の光をすくってきらめく。膝上丈のピンクのワンピースがひらりと揺れて、まるでお姫様のようだった。一瞬、私は本当に死んだんだと思った。こんな人、現実にいるのだろうかと思うほどに、美しかった。

「膝擦り剥いてる。血でてるよ」

とりあえず場所変えよと言って、彼女は私の手を取って歩き出した。周りを見渡せば、ホームの人々はこちらを奇異の目で見ている。そんな目で、見ないで。ごめんなさい。 社会に迷惑かけてごめんなさい。すみません。

少し歩いてホームの端の椅子まで来た。彼女は私を座らせ、鞄からティッシュを取り出して血の滲む膝に当てた。

「痛い、なあ⋯⋯」

「当たり前でしょ。血、出てるんだから」

彼女は鞄から取りだした可愛らしい柄の絆創膏を私の膝に貼って、じっとこちらを見つめた。大きな黒い瞳に吸い込まれそうで、なんだか色々申し訳無くなって目を逸らした。

「さっきさ、お姉さん死のうとしてたの? 」

「え、ああ、たぶん、そうです。ただ、自分でもよくわからないんです。頭があまりにも回らなくなっちゃって」

上手く言葉は出ないのに、早鐘を打つ心臓につられるように早口で喋ってしまう。それがなんだか情けなくて、気づけば私は、目からボロボロと涙をこぼしていた。消えればもう何も考えなくてよくなる。それだけが頭にあった。死にたいとかじゃなくて、消えたかった。身軽になりたかった。

「さっきさ、私が腕引っ張った時、お姉さんガタガタ震えてたよ。本当に死ぬ覚悟決まってたの? 」

「覚悟⋯⋯」

「死にたいわけじゃないくて、消えて楽になりたかったんじゃないの」

心の内を言い当てられてドキッとした。死にたいわけじゃない。たぶんやりたいことだってあるし、死んだらなにかしら後悔していたと思う。

「まあ、アタシは他人だからよくわかんないけどさ。ハンカチあるから貸してあげる。とりあえず涙拭きなよ」  

彼女はそう言って、綺麗にたたまれたピンク色のハンカチを差し出した。

「⋯⋯すみません。あの、ご迷惑をおかけしました。このお礼は必ずします。ハンカチも絶対に返します」

「別にいいよ。ハンカチは捨ててもいいし。ごめん、アタシそろそろ行くね。一応これ連絡先。お礼したいと思うなら、店に来てくれるのがありがたいかな」  

彼女は私に名刺を差し出すと、スタスタと歩いて電車に乗り込んだ。電車は定刻で発車し、すぐに見えなくなった。

手の中にある名刺を見ると、紫の蝶々が飛び交う派手なデザインだった。表にはいかにもな店の名前と「小春」の文字。なるほど、彼女はキャバ嬢だったのか。自分とは縁がないと思っていた世界の住人に助けられるとは。気づけば頭の中はすっかり「小春」のことでいっぱいになっていた。このお店に行けばもう一度会える。

その時の私は、死の恐怖が蘇ったか、あるいは、彼女のことを思い出してか、心臓の鼓動が早まるのを感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ふたり、ただよう。 綿辺こごと @wtnb5510

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ