ふたり、ただよう。

綿辺こごと

わたしの神さま

もうすぐ、この顔も見られなくなる。

隣に座ってテレビを見ている雪乃ちゃんの横顔をこっそり眺める。嗚呼、いつ見ても本当に美しい顔だ。私の好きな顔、雪乃ちゃんの顔を創った神様がいるのなら、心からの賞賛を送りたい。きっと、腕のいい職人のような神様なのだろう。

狭いビジネスホテルの一室はただ静かで、つまらないテレビの淡い光だけが我々の影を揺らしている。建付けの悪い小さな窓の隙間から、冷たい風が入り込み、私の頬をかすめた。冬の温度が少しだけ、部屋の空気に混ざった。

冬は好きだ。最近好きになった。冬は雪の季節。雪乃ちゃんと出会ってから、冬が好きになった。未踏の雪原のように白く澄んだ肌。見つめれば吸い込まれそうになる夜空のごとき瞳。そして何よりも私を惹きつけるのは、艶めいてふっくらとした赤い唇。ルビーのように光り、見る者を欲望に駆り立てる。この唇が微かに動くたび、心臓の鼓動が乱れ、言葉をかける前に思わず息をのんでしまう。これらは紛うことなき彼女の武器だ。初めて会った日、鈍く輝くネオンの下でも、霞むことなく光り続けていた。

「なあに、じっと見つめて」

はっと我に返る。雪乃ちゃんは不思議そうにこちらを見つめていた。

「あ、いや、ごめんね。今日も綺麗だなあって思って⋯⋯」

わたわたと謝る私に、彼女はふふっと吹き出す。笑い声は小鳥のさえずりのようで、静かな部屋に心地よく響いた。

「なるさんって、本当に私の顔好きだよね。こんな顔でよかったら、いくらでも眺めてていいよ」

どーぞ、なんて言って見つめてくる。

瞬間、胸がぎゅっと締め付けられる。

もうすぐ、これも見納めなのだ。夜空のような瞳がさらに深く、濃く見えた。時間よ止まれと願うけれど、現実は、終わりは、確実に私たちに迫っている。

私は小さく息を吐く。目をそらしても、心は離れない。部屋の隅に置かれた小さなテーブルの上のカップや、床に散らばった雑誌のページが、今この瞬間を静かに見守っているようだ。

「今日は、少し早く起きちゃった」

雪乃ちゃんがソファに体を沈め、毛布を少し引き寄せる。その仕草が、幼い日の思い出のように、どこか懐かしくもあり、愛おしい。私はただその横顔を見つめることしかできない。

「うん⋯⋯朝日が部屋に差し込むと、どうしても目が覚める」

同じだねと笑ったその口元に、触れたくなる衝動を抑える。今は、肉体的に触れ合うより、この瞬間の全てを胸に刻むことの方が大切だ。

テレビ画面の中は、朝のニュース番組で、キャスターが全国のニュースを生真面目そうに伝えている。聞き馴染みのいい声は部屋中に響いているけれど、私の耳には雪乃ちゃんの息遣いしか届かない。彼女の存在そのものが、空気のように私の感覚を満たしている。

「なるさん、アタシのことずっと見てる」

「ごめん。ちょっと、見とれてただけ」

冗談めかして言ってみたものの、あまりの恥ずかしさに顔が熱くなる。けれど雪乃ちゃんは優しく微笑み、軽く肩をすくめた。

「ふふっ、もう見納めだからね」

その一言で、胸の奥にある緊張と切なさが再び押し寄せる。私たちが共に過ごせる時間が、どれだけあるのかはわからない。でも、この一瞬をひたすら大事にしたい。

私はただひたすらもどかしくて、そっと手を差し出す。

「⋯⋯いいよ。手、つなごうか」

なにも言わずとも雪乃ちゃんは、いつも私のことをわかってくれる。徐々に近づいた指先が触れた瞬間、電流のように胸が跳ねる。目の前の彼女は美しい。美しすぎる。私にとっての神様。宝物。私にとって他の全てより優先される存在。手のひらの中に閉じ込めておきたいと思うけれども、彼女はとても儚いから、そんなことをすればきっとすぐに無くなってしまう。それこそ、雪みたいに。寂しいな、心の奥がひりつくように痛む。

痛みを無くすように、手を離してゆっくりと立ち上がって少しだけ窓を開ける。

外を見れば、冬の弱々しい朝日が道路をしっとり照らしている。寒さに肩をすくめた人々が、黙々とどこかへ歩き去る。

「みんな忙しそうだね」

雪乃ちゃんが、私の横から外を覗く。

「アタシたちのこと、見えてないみたい」

「あの人たちは、わざわざビジネスホテルの前で立ち止まって、上を眺める余裕なんてないんだよ」

「ふーん。そういうものかな」

「そういうものだよ」

「アタシたち、世の中の漂い方忘れちゃったかもね」

「もうずいぶん流されてきたからね。思い出せなくてもいいや」

雪乃ちゃんの方を見ると、長いまつ毛が瞳に影を落としていた。

「なるさん、わがままに付き合ってくれてありがとう。色々なもの捨てさせちゃってごめんね」

雪乃ちゃんの声が、白い空気とともに窓の外に吐き出された。

「私は、雪乃ちゃんが助けてくれたから ⋯⋯雪乃ちゃんがいてくれるから、生きていられる」

自然と口から零れた。涙が少し、頬を伝う。恥ずかしいけれど、止められない。

私たちは、しばらく黙って外を見つめていた。往来の人々は、誰も私たちに気づかない。私の涙のあとも、私たちの寒さで赤らんだ頬も、世間の人は誰も知らない。

もうすぐ、漂流するみたいに生きるのも終わりを迎えるだろう。この旅は、旅行なんかじゃない。漂って、彷徨って、流れ着いたところで終わり。

雪乃ちゃんが言った、わがままはたったひとつだけ。


「アタシが死ぬまでついてきて」


これは私の神さまの終わりを見届ける話。

ただそれだけ。往来の人々には関係のないつまらない話です。

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