第23話 後悔の涙
「保健室の件で、君に勘違いをされては困る」
天城は、まるで冷たい壁を築くように、そう言い放った。彼の視線は、俺の目を射抜くのではなく、無機質なサイドミラーに映る自分の横顔を見つめている。
「あれは佐伯君を庇ったわけではない。教師として、当然の事をしただけだ」
「当然のこと?」
俺は眉をひそめた。
「教師として当然の行動とは思えないですけど…。深月はあなたと関係を持とうとしていたし、あなたはそれを許容しようとしていた。それが、教師のやることですか?それに……俺を巻き込むなと庇ったのは、どういう理由なんですか」
「ふん」
天城は鼻で笑った。
「今朝も言っただろう。大人の事情というやつだ。優秀な生徒は庇うさ。贔屓もする。底辺な生徒など、学校にとっては必要ないからな。それとも、君は学校の秩序を乱した共犯者になりたかったのか? 俺は学校の利益のために、行動した。それだけだ」
彼の言葉は冷酷で、一切の情を否定していた。しかし、俺の胸に湧き上がったのは、怒りや軽蔑ではなかった。
(この人は、本当に不器用なんだな……)
彼の視線は遠く、その言葉には、誰にも本心を知られたくないという、強い拒絶が滲み出ている。教師として当然の行動だと言いながら、実際には自分の地位や立場を犠牲にしてまで、俺の平穏を守ろうとしたのだ。
前世で、ルシアンはそうだった。自分の危険を顧みず、エリシアを守るためなら、どんな泥にだって塗れる覚悟を持っていた。裏切り者を信じすぎたのも、その純粋さ、高潔さが招いた悲劇だった。
(ルシアン様……)
俺は、天城陵という最低野郎の皮を被った、愛しいルシアンの魂の不器用さを、全身で感じていた。
「もし、あれが俺じゃなくて他の生徒だったら、同じことをしましたか?」
俺は静かに、問いかけた。
天城の瞳が、僅かに揺れた。一瞬の沈黙。
「……愚問だ。」
彼はそれ以上言葉を続けず、ゆっくりと車を発進させた。カーステレオからは、控えめなクラシック音楽が流れている。
行き先は、スーパーマーケットではない。天城は、俺をどこかへ連れて行こうとしている。抵抗することもできたが、ルシアンの真意を少しでも知りたいという渇望が、俺を縛り付けていた。
車は繁華街を抜け、高級住宅街の一角にある、モダンなマンションの地下駐車場に滑り込んだ。
「着いたぞ」
「え、ここ……」
「俺の家だ。買い出しなら、俺が連れて行ってもいいが、その前に少し付き合え」
俺は何も言えず、天城の後について、エレベーターで最上階へ向かった。彼の部屋は、想像していたよりもずっと広大で、シンプルで無機質な内装だった。洗練されているが、生活感がなく、暖かさとは無縁の空間。まるで、誰かを迎え入れることを拒んでいる、孤独な城のようだった。
「適当に座れ」
彼はコートを脱ぎ、俺に背を向けたままキッチンでミネラルウォーターをコップに注ぎ始めた。
俺はソファに腰掛け、部屋を見渡した。壁には現代アートのような抽象画が飾られているだけで、個人的なものはほとんど見当たらない。
(この部屋には、天城陵という人間の過去がない)
そう感じたとき、視線がある一点に引きつけられた。リビングの隅の棚に、小さな写真立てが一つだけ置かれていた。
写真立てには、天城と思われる少年時代の姿と、隣に寄り添う一人の女性が写っていた。女性は優しそうな笑みを浮かべ、少年の頭に手を置いている。家族写真のように見えた。
「その写真か」
天城はコップを二つ持って戻りながら、淡々と口を開いた。
「俺の両親はもう他界していてな。その女性は、母の死後に俺を養子として引き取ってくれた叔母だ。母子家庭で母も忙しくしてたからな。小さいころからよくしてくれててた」
彼は俺にコップを差し出した。
「だが、その人も先日病気で亡くなった。俺には、現世で家族と呼べる奴は誰もいない」
彼はそう言いながら、ソファの対面に深く腰掛けた。その言葉には、何の感情も含まれていないように聞こえたが、その空虚さが、俺の胸を強く締め付けた。
(そんな……)
俺は、現世の自分の生活を思い返す。シングルマザーだが、母さんは毎日必死で働いて、俺のために美味しいご飯を作り、常に愛情を注いでくれた。貧しいながらも、そこには確かな愛と家族の温もりがあった。
しかし、天城陵はどうだ。
前世で、彼は愛するエリシアと国を守ることに命を懸け、裏切り者に殺された。その魂は現世に転生し、人生をやり直す機会を与えられた。にもかかわらず、この現世では家族の愛も与えられることのない、孤独な環境だという。
なぜだ。神はなぜ、ルシアンにだけこんな仕打ちをするのか。
ルシアンはエリシアを救えず、裏切りの痛みと共に死んだ。だが、その魂は愛を信じることから逃れるために、最低野郎として現世を生きている。そして、彼の心を覆う虚無は、愛する者を失い、さらに現世の孤独な人生を送ったという、二重の悲劇から生まれたものだった。
俺は唇を噛みしめた。コップを持った手が、震え始めた。
「なぜ……」
声が震える。
「なぜ、神は貴方だけを……こんなにも、」
(傷つけるんだ)
言葉にならなかった。目頭が熱くなり、視界が滲んでいく。
俺は、ルシアンが背負った千年の孤独と痛みを悟り、激しい後悔に襲われた。
「俺は……自分が転生したと気づいた時に、どうして貴方も生まれ変わっていると思わなかったんだ」
頬を伝って熱い涙が流れ落ちる。俺はコップをテーブルに置き、両手で顔を覆った。
「もっと、もっと早く、全力で貴方を探せばよかった。あの世で再会することだけを夢見て、現世の貴方の痛みを想像もしなかった……」
エリシアは、ルシアンを信じて疑わなかった。しかし、佐伯陽翔としての俺は、天城陵の孤独に気づくのが遅すぎた。
「こんな最低な男になって、愛を信じられない呪いをかけられた貴方を……もっと早く、この温かい場所へ連れ戻したかった……!」
嗚咽が漏れた。それは、ルシアンへの愛と、孤独にさせてしまったことへの、千年の時を超えた、激しい後悔の涙だった。
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