第40話 東雲の空から溢れ落ちる光
石畳に投げ出された蔵人の横に、影が差した。
ユーリ「立てるか」
掠れた声でそう言ったのはユーリだった。彼はためらいなく蔵人の腕を取り、肩を貸す。痩せこけた身体なのに、その支えは意外なほど確かだった。
蔵人はなにも言わない。
煤けた街路を二人は歩いた。泥炭の煙が漂い、夜の湿気が傷口に沁みる。酒場から漏れる笑い声はまだ背後に響いていたが、ユーリは気に留めず、慣れた足取りで路地を抜けていく。
ユーリ「あーあ、あそこ味は酷いけど安かったのにな」
蔵人「……悪いな」
やがて辿り着いたのは、街外れの安宿の裏手にある粗末な部屋だった。壁は煤で黒ずみ、藁を敷いただけの床が寝床代わりになっている。汚物の捨て場が近く匂いも酷い。そこに、ランタンの橙に照らされた女の影が座っていた。
黒髪を無理に染め濃い化粧を施した顔と、安ドレスの裾から覗く布片は、かつての制服の名残だった。下手な裁縫で見る影もない合成繊維の布地だけが、彼女を異界から来た証として残っている。
彼女の名前は
彼女は蔵人を一瞥し、短く言葉を投げる。
レン「誰よ、その男」
その声は冷たくも、どこか諦めを含んでいた。蔵人は言葉を失い、ただユーリに支えられながら藁の上に身を横たえた。
ユーリ「この人も、日本からきたそうだ」
レン「ふーん……」
レンはそれ以上何も言わず、煤けた空気の中に沈黙が落ちた。蔵人は痛みと屈辱を抱えながら目を閉じる。
夜の帳が捲くられる直前に蔵人は目を覚ました。
ガラスもない窓から見える薄暗い夜の空は蔵人の心のようだった。
隣にはユーリが静かに眠っている。痩せこけた胸がわずかに上下し、疲れ切った寝息が部屋に溶けている。
蔵人はしばし空虚な空間を見つめ、やがて決意したように立ち上がる。手持ちの金をすべてユーリのそばに置き、部屋を後にしようとしたその時、扉が軋んだ音と共に開かれた。
ランタンの橙を背に、レンが帰ってきた。安ドレスの裾が揺れ、濃い化粧の奥の瞳が蔵人のどこか暗い瞳と目が合う。
レン「あ……」
短い吐息のような声が静けさを破った。蔵人は振り返ったが、言葉は出ない。互いの視線が交わり、時間が止まったように思えた。
蔵人は目を伏せ、扉の外へと歩み去る。 背後に残されたレンは、わずかに唇を噛みしめ、何かを言いかけては飲み込んだ。
レン「まっ、まって……」
その言葉に、蔵人は立ち止まった。
レン「……あんた、本当に、ここを出ていくの? 行く宛は、あるの……?」
蔵人「行く宛か」
蔵人はしばらく考え、視線を床に落とした。藁の上に眠るユーリの寝息が、静けさを強調した。
レン「宛があるっていうのなら、私達も――」
蔵人「たぶん、もうすぐなくなる」
レン「……そう、なんだ」
レンは目を伏せ、裾を握りしめた。
沈黙が二人の間に広がった。外では泥炭の煙が漂い、街のざわめきが遠くに響き始めていた。
蔵人は扉の取手を握ったままだった。そして、わすがな希望にすがるように、言った。
蔵人「どこか、はるか遠くの、東の果てになら、あるのかな」
その呟きに重なるように、朝日から溢れ落ちた光が、煤けた窓から差し込んだ。
世界の果まで照らす東雲の主は、蔵人たちに温もりをもたらすことなく、ただ冷たい現実を照らしただけだった。
レン「……どうせありはしないわ。どこへ行こうと日本はない。例え東の果てに行こうとも、そこは私達の日本じゃない」
帰りたい、そんな虚しい願いで乾いた心を潤す。叶えられることはない、愚かな願いだった。
重なるのはこの二人の姿と学園の生徒――楓や弦音の姿だった。
甘い、はちみつのように甘い、行商人の夢はつゆと落ち、蔵人は一人思う。
ジプシーに故郷はないのだ。蔵人たちと、同じように。
拳を握りしめる。血濡れの斧を手に持つ幻を見ながら。
蔵人「――奴隷になんてさせてたまるものか」
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