第39話 貧民の酒場

 煤けた酒場の扉を押し開けた瞬間、泥炭の甘苦い煙と湿気が入り混じった、なんとも形容しがたい臭気が蔵人の鼻腔を突いた。 木の卓は油と酒で黒ずみ、床には灰が積もり、踏みしめるたびにざらりとした感触が靴底に伝わる。客たちは一斉に顔を上げ、異邦人の姿を認めるや否や、すぐに嘲笑を漏らした。

「なんだあの顔……異邦人か」

 その声は低く湿り、蔑みと好奇心が入り混じっていた。蔵人は肩をすくめ、先導する物乞いの男、ユーリ・高宮が座る隅の卓へと歩み寄る。 盗賊からの戦利品である銅貨を、この物乞いとの酒盛りに使うということだった。

蔵人「お前は、日本人なんだよな」

ユーリ「まあ、な。父親がロシア人なんだ。まあ日本に居たときは結構からかわれたけどな」

 蔵人とユーリは、互いの経緯を話し合った。

 語り合ううちに、蔵人はユーリの背負ってきた年月の重さを知る。 ユーリがこの世界に来たのは五年前。蔵人は別の、クラス丸ごと異世界転移に巻き込まれ、四十三人のクラスメイトと共にこの世界に飛ばされた。わけもわからず成り行きで辺境伯に保護されたという。

 辺境伯は最初こそ友好的に振る舞った。だが彼らの持ち込んだ資産、資産と呼べるものでもない手持ちの品を押収すると、クラスメイトたちは領地に散り散りにされ、村々の小作人として割り振られたのだ。

 小作人といえば聞こえはいいが実態は農奴といっても良いものだった。畑は他人のもの、労働は監視付き、抵抗すれば罰が待っていた。冬の間は開墾作業に駆り出され誰よりもこき使われた。冬を越せなかったクラスメイトも居た。

 やがて、仕打ちに耐えかねたクラスメイトと共に脱走しこの街に舞い戻ったというわけだった。しかし街に戻ったからと言って仕事があるわけでもなし、また辺境伯に報復などできるはずもない。こうして物乞いをして日々の糧を得ていた。

 その一緒に逃げてきたクラスメイトは、村人の一人に強姦をされ、娼婦以下の扱いに耐えかねての脱走だった。しかし、そのクラスメイトは、この街で娼婦をして生計を立てている。物乞いとたちんぼ、どちらが稼いでいるかは自明の理だった。

蔵人「それって、つまりお前ヒモってことじゃん」

 ユーリは何も言い返せない。

蔵人「戦争には駆り出されなかったのか?」

ユーリ「たまたま、俺達の転移したときには戦はなかったようだな。最近はきな臭いが」

蔵人「なにかあったのか?」

ユーリ「隣国の……なんて言ったかな、なんとか大公国ってところと一触即発ってのが街の噂だな。……もしあのまま村に残っていたらと思うとゾッとするぜ」

蔵人「村で徴兵されるってことか?」

ユーリ「村々で兵隊に送る男手にノルマがあるんだよ。よそから来た小作人なんて、なあ?」

蔵人「ああ……」

 蔵人は卓上の木杯を取り、口に含んだ。 次の瞬間、顔をしかめて吐き捨てる。

蔵人「まっず!! 何だこの酒!!」

ユーリ「お、おい!」

 その言葉に、店主が血相を変えて飛んできた。煤にまみれた顔に怒りを浮かべ、蔵人を睨みつける。

店主「おいよそ者!! 俺の出す酒にケチつけようってのか!!」

蔵人「お前飲んでみろよ!! まずいなんてもんじゃないぞ!! 雑巾の絞り汁のほうがまだマシなんじゃないか?」

店主「それはないな! それが搾り汁だ」

蔵人「ぶっ殺すぞ!!!」

 酒場の空気が一瞬にして凍りついた。客たちは笑いながらも距離を取り、異邦人と店主の口論を面白がるように眺めている。だがその視線の奥には、異邦人を見下す冷たい蔑みが潜んでいた。

 蔵人は立ち上がって、店主と相対する。

蔵人「――なっ!!」

 酒場の守衛に背後から羽交い締めにされた。

店主「おらァ!!」

 店主の拳が容赦なく蔵人の顔面を打ち据える。一方的だった。

 蔵人も負けじと羽交い締めにした守衛に対して後頭部の頭突を食らわしたが、帽子のようにつばのある鉄の兜が逆に自分の頭に深々と食い込み、痛みだけが残った。

蔵人「イッタ!!」

 その後はもう一方的だった。殴られ、蹴られ、抵抗の余地もない。やがて満足したのか、蔵人は店先に捨てられた。酒場は歓声と笑い声で包まれている。

「見ろよ、異邦人が転がってるぞ!」 「よそ者は殴られてなんぼだ!」「酒を出されただけでも感謝しな! 酒じゃねーけど」 「人間扱いなんてされると思うなよゴミ!」

 嘲笑と罵声が石畳に響き渡り、蔵人の耳を焼いた。

蔵人「くっそ……」

 石畳に投げ出された身体は、殴打の痛みに軋んでいた。だが頬を歪めるその表情を締め付けていたのは、肉体の痛みではない。 胸の奥に広がるのは、どうしようもない無力感だった。

 頬を伝う涙は、拳の衝撃に耐えかねたものではない。異邦人として笑われ、殴られ、蹴られ、どこへ逃げても人間として扱われないという現実に打ちのめされた涙だった。

 この世界の秩序の中では、自分はただの余所者であり、存在そのものが否定される。そんな不条理が、彼の心を深く抉っていた。

 煤けた街の空気は重く、泥炭の煙が喉に絡みつく。遠くで酒場の笑い声が響き、彼の屈辱を祝祭のように踏みにじっていた。 蔵人は拳を握りしめたが、震える指先は力を宿せない。

 ――この異世界に、根を下ろせる場所は本当にあるのだろうか。 居場所を見つけることができるまで、生き残ることができるのだろうか。

 そんな心の中の問いは答えを持たず、ただ夜の闇に溶けていった。

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