第33話 胡蝶の夢
保健室の窓から差し込む夕陽の、濃い赤い光が二人を包んでいた。静かな空気の中、弦音がぽつりと口を開く。
弦音「それで、会長に言えなかったんだ、あの話」
蔵人は答えず、視線を落とした。布団のシワを指先でなぞりながら、言葉を探すが、喉の奥に張りついて出てこない。
弦音「薄情だよね! こんなに色々やらせておいてさ」
蔵人「別に……俺が勝手にやったことだし……」
吐き出すように呟いた。だがその言葉は、自分の心を守るための言い訳だった。
弦音「それでも、水源だって、狩りだって、木炭だって、みんなオタクくんがやったことじゃん!」
蔵人「アイツラが持ってきた食料の足元にも及ばないよ……」
自嘲気味に蔵人は薄ら笑いを浮かべる。その言葉に、弦音は机を叩くように身を乗り出した。
弦音「そんなことない!!」
彼女の瞳は涙を含んで揺れていた。
弦音「オタクくんはあてしを助けてくれた!!」
その一言が、蔵人の胸を深く突き刺した。熱いものが込み上げ、視界が滲む。必死に瞬きを繰り返し、涙をこらえる。
蔵人「……ありがとう」
弦音「な、なんでオタクくんがお礼をいうの……! お礼を言うのはあてしのほうじゃん……」
弦音の声は小さく震えていた。蔵人は小さく笑い、視線を逸らす。
蔵人「でも、いま励ましてもらってるわけだしな」
言葉が途切れ、二人の間に沈黙が落ちる。だがその沈黙は重苦しいものではなく、むしろ温かく、互いの距離をほんの少しだけ縮めていた。
弦音「会長たち、どうするつもりなんだろう……」
蔵人「オルフェリアとかいう女の口ぶりから察するに、もう保護されることに決めたんじゃないか?」
弦音「でも、どう考えても全員が保護されるなんて、無理だよ……」
蔵人「そうだな。運が良ければ、ある程度の支度金をもらって、って感じか」
弦音は唇を噛みしめ、不安げに俯いた。蔵人はそんな彼女を見つめ、ふと遠い目をする。
弦音「そうしたら、オタクくんはどうするの?」
蔵人「そうだな……行商人でもなろうかな?」
弦音「行商人……? 狼と香◯料みたいな?」
蔵人「そう! よく知ってるな!!」
弦音「だって、この前アニメやってたし」
蔵人「街から街へ巡って世界を見るんだ!! せっかくの中世みたいな異世界なんだ、楽しまなきゃな!!」
弦音「ふふっ! 楽しそう!!」
弦音の笑顔に、蔵人の胸の重さが少しだけ和らいだ。
蔵人「弦音はどうしたいんだ?」
弦音「あてしは……なにもわかんないや……」
蔵人「なら、一緒にいかないか?」
弦音「……えっ!」
蔵人「俺、全然計算とか出来ないし……そういうの得意なやつが居てくれると助かるんだが」
弦音「あっ、あてし数学得意なんだ!!」
蔵人「ほ、本当か!? じゃあ……」
弦音「うん……うんっ!! あてしも行きたい!!」
その瞬間、二人の胸に芽生えたのは、現実の不安をほんの一時だけ忘れさせる、小さな夢だった。
それが現実逃避にすぎないことは、二人とも心のどこかで理解していた。それでも――その一瞬だけは、確かに幸せだった。
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