第29話 お礼参り

 昼食も終わり、蔵人は狩りへと赴こうとしていた。その出発前、ひとつのいざこざが持ち上がった。

 それは狩猟権をめぐる問題である。中世社会において、野生動物は基本的に領主の所有物とされ、平民による狩猟は固く禁じられていた。違反すれば、最悪の場合は絞首刑に処されるほどの重罪であった。

 しかし、学園の現状と、狩猟対象が野ウサギ程度に限られていることを考慮し、オルフェリアは特例として狩猟を許可した。

 蔵人は「なぜ名代風情がそのような権限を行使できるのか」と内心で訝しんだが、口には出さなかった。昨日の失言で十分に場をかき乱してしまったこともあり、これ以上の諍いを招くつもりはなかったのだ。

蔵人「――っし、俺もうまくなったもんじゃないか? 自惚れちまうぜ」

 小一時間で三羽ものウサギを仕留めていた。

 本来なら森での単独行動を禁じていた本人が、なぜ一人で狩りをしているのか。理由は単純だった。――誰もついてこなかったのだ。 

蔵人「人望がない……こんなにも貢献しているのに! 許せねえ……」

 縄にウサギを括りつけ、学園へ戻ろうとしたそのときだった。

蔵人「――?」

 ふと、違和感が背筋を走った。しかし、それが何なのかは掴めない。見渡す限り、ただ鬱蒼とした森が広がるばかりだった。

蔵人「……帰るか」

 そう足を踏み出した瞬間、野ウサギの血で足を滑らせ、派手に転んだ。

 だが蔵人を驚かせたのは転倒そのものではなかった。頬をかすめた“何か”――聞き慣れぬ発射音とともに飛来したそれが、木の幹に突き刺さったのだ。

 振り返ると、そこに突き立っていたのは矢……いや、矢にしては短い。

 だが蔵人はそれが何かを知っていた。

 ――クロスボウの矢、ボルトと呼ばれるものだった。

 蔵人は獲物を捨てて咄嗟に、そのボルトの刺さった木の裏に隠れた。

蔵人「ババアの従騎士かっ!!」

ディートリヒ「なるほど、殿下は慧眼であられるな!! 侮るなかれとは金言だったわ!!」

蔵人「お礼参りかよ!! それが貴族のやることか!!」

ディートリヒ「キサマ一人居なくなれば、ことも運びやすいというものだ!! 報復はついでだよ!!」

 ディートリヒの目は血走り、口元には嗜虐的な笑みが浮かんでいた。

蔵人(これはかなりヤバいな……)

ディートリヒ「今のキサマには、五百人の部下は居まい!! はっはっは! 無様なものだな農民!!」

蔵人「499人だ馬鹿! ふん!! 俺の人生はずっと無様だったが?」

ディートリヒ「これからは、もうそんな醜態はさらさなくても良いぞ!!」

蔵人「ありがとうございますううううううう」

 草木を踏みしだく音が、森の静寂を乱した。ディートリヒが位置を変えている。

 蔵人は息を殺し、耳を澄ませる。

蔵人(どうする……クソクソクソ! 死ぬのか、ここで……)

 恐怖と後悔が胸を締めつける。今までの戦いとは違う。余計な挑発をしなければ、こんなことにはならなかった。相手は戦闘のプロである。二、三人を手にかけた程度の自分が、人殺しの英才教育を受けてきた騎士を倒せるはずがない。

 脳裏をよぎるのは、学園の、生徒たちの顔だった。

蔵人(死にたくねえ! 死ぬわけにもいかねえ!! 何よりやっぱり死にたくねえ!!)

 活路は一瞬。注意をそらし、乱戦に持ち込むしかない。蔵人は孤独と恐怖に耐えながら、その瞬間を待った。

 草木を分ける音がした。ディートリヒが反射的に草藪にクロスボウを放つ。だが、そこに蔵人の姿はなかった。

ディートリヒ「クソっ!! 野ウサギか?」

 蔵人はディートリヒにタックルをかました。

ディートリヒ「なにぃ!!」

 蔵人はそのまま腹に乗りかかり、肘で顔面を叩きつけた。

 負けじとディートリヒも反撃し、蔵人の柔らかな横腹に鋭い拳を何度もめり込ませる。

蔵人「うおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!」

 渾身の叫びとともに、蔵人は体重をかけてディートリヒの目を狙った。

 目潰し――生き延びるための、必死の一撃だった。

ディートリヒ「あががががががががが!!!! のうっみん、がああああああああああ」

蔵人「――!?」

 乱戦のさなか、蔵人は背後にもう一つの“殺気”のようなものを感じ取った。

 反射的に、してはならないと分かっていながらも、組み合っていたディートリヒから身を離す。

 ディートリヒも一瞬困惑した。しかし一瞬だけだった。

「がるるるるうううう」

 草むらを裂く音とともに、影が飛び出す。

 狼――その牙が、ディートリヒの喉元めがけて突進してきたのだ。

ディートリヒ「がはっ!!」

 ディートリヒの喉元に、狼の牙が沈み込む。

 蔵人は、まるでスローモーションにでもなったかのように、時間がゆったりと見えた。この先なにをすることが正解なのか考えていた。冷静に、そう嫌に冷静に、この場での最善策、つまりディートリヒを助けるか見殺しにするかを値踏みしていた。

蔵人(性根の腐ってるクソ差別主義者のゴミクズ野郎だが、それでも貴族……死なせたら、こいつの親族に報復される。しかし、なんで殺そうとしてきた相手を助けなくちゃならねえんだよ……クソが!!)

 蔵人は腰の斧を抜き放ち、渾身の力で振り下ろす。刃は狼の背を深々と切り裂き、獣の咆哮が森に響き渡った。――助けることにしたのだ。

ディートリヒ「な、なぜ……」

蔵人「ボルトをよこせよ!」

 狼は一匹だけではなかった。まだ二匹、影が森の闇に潜んでいる。

蔵人(やはりな……狼は群れるものだ)

 蔵人はクロスボウを拾い上げ、ディートリヒが腰に吊るしていた鉄製の、ヤギの足のようなレバーを掛けた。爪を弦に引っかけ、柄を押し下げると、ギシリと木が軋む音とともに弦が滑らかに引き絞られていく。

 重装を貫通するような、威力の高い張力ではない。だからこそこの鉤爪のような器具を使えば、それほど時間はかからなかった。素手では到底無理な力で、レバーは一瞬で従わせる。

 ――カチリ、と弦が引き金に収まる。

 蔵人はすぐさまボルトを溝に滑り込ませ、狙いを定めた。

 牙を剥いて飛びかかる一匹に向けて、引き金を引く。乾いた音とともに矢が放たれ、狼は地面に崩れ落ちた。

 しかしもう一匹が、蔵人の腕に食らいついた。

蔵人「いっ!!!!!!」

 腕に鋭い痛みが走り、骨まで噛み砕かれるような感覚に蔵人は思わず悲鳴を漏らす。

 激痛に顔を歪めたその足元に、先ほどの斧が転がっていた。

 それを拾い上げたのは、血に濡れながらも立ち上がったディートリヒだった。最後の力を振り絞り、彼は斧を振り抜く。鋼の刃が狼を切り裂き、血飛沫が散った。

ディートリヒ「……農民に、借りは、作らない」

 その言葉を吐き出すと、彼は力尽きたように膝を折り、地面に崩れ落ちた。

蔵人「馬鹿が……誰がお前を担いで、学園に戻ると思ってんだよ!! ボケ!!」

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