第18話 自惚れ

 蔵人は血だらけの両手を川で洗い流している。

 洗っても洗っても、血は落ちない。蔵人は洗い続ける。

 真っ赤な血液は、ゆらゆらと水の流れに乗って散った。

月絵「もう落ちているわ」

 蔵人は、その月絵の言葉でようやく手を川から引き上げた。

 それでもじっと、両の手を見る。

 月絵がついてきたことも、蔵人は驚かなかった。

蔵人「……上流で洗ったら、水くみしてる奴らが可愛そうだな。水も汚染されそうだし。でも、もしも大型の獣を狩ったら、解体するのにも川でやらなきゃならないだろうし、どうすっかな」

 月絵は少しだけ目を細めた。

月絵「なら、場所を決めればいい。血を流す場所と、水を汲む場所を分ける。それだけのこと」

蔵人「簡単にいうよな」

月絵「事実を言ってるだけ」

蔵人「何十キロの肉の固まりを持っていくんだぞ? 男手が必要だ。狩りには何人かで行動しなきゃな」

月絵「水くみの行くのだって、五人で行動しているんだから、対して変わらないわ」

蔵人「男女の比率というか、そういうのが大事なんじゃないか!! うん大事だ!」

月絵「それは生徒会に任せればいいじゃない」

蔵人「わーってるよ!! お前さああ!!! 何ていうのかな!! お前さああ!!!!!」

月絵「なに?」

蔵人「ぐぎぎぎぎぎぎ」

 もう蔵人はなにも言えない。

蔵人「あっそうだ(唐突)、お前さあ、初めて生き物を矢で撃って平気なのか?」

月絵「……何が?」

蔵人「命を奪った罪悪感とか、そういうのないわけ?」

月絵「別にないわ」

 蔵人は唖然とした。

蔵人「ないってことはないだろ」

月絵「ないわ」

 またも唖然として、言葉が出なかった。

蔵人「すげえな」

月絵「人を殺した貴方のほうがよっぽど凄いわ」

蔵人「……こいつ、少しは気遣いってのができないのか」

 バシャっ、と水を弾いた音がする。

 見ると大きな枝角を持つ大型の鹿、アカシカが川の水を飲みに来ていた。

 蔵人は息を呑み、弓を手に取る。盗賊から奪った鉄の鏃の矢をつがえ、狙いを定めた。隣では月絵も無言で弓を構える。蔵人が仕留め損ねた時のために、冷徹な補射の準備をしていた。

 パシュっ――

 飛矢の甲高い音がすると、蔵人の放った矢はアカシカの太ももに当たった。

蔵人「よぉしっ!!」

 思わず声が漏れる。だが、獣はまだ立っていた。仕留めきれなかったのだ。そのまま体を跳ねさせながら、逃げようとした。

 すかさず月絵が矢を放つ。狙いは首元。

月絵(よしっ)

 確かな手応えがあった。アカシカは大きく揺らぎ、地面に倒れ込んだ。

 月絵は矢を回収しようと、倒れた鹿に歩み寄る。その瞬間――

月絵(えっ!?)

 月絵の目が見開かれる。アカシカの体が跳ね起きたのだ。

 アカシカはその大きく太い角を突きつけながら月絵に突進してきた。鹿は最後の力を振り絞り、角を突き出し、月絵に突進してきたのだ。

 その迫力に冷静なはずの月絵も一瞬、足がすくむ。その狂気をはらんだような、必死の抵抗に、月絵は臆した。

蔵人「っ!!」

 蔵人は咄嗟に地面の岩を掴み、全力で投げつけた。石は奇跡的に角の隙間を抜け、眉間に直撃する。

 アカシカは体勢を崩し、地面に倒れ込んだ。同時に蔵人は月絵の腕を掴み、強引に引き寄せる。

 蔵人は腰の斧を抜き、鹿の首元に振り下ろす。骨を断つ鈍い音が響き、獣はようやく動かなくなった。

 ――ほんの数秒の出来事のはずなのに、月絵には永遠のように長く感じられた。

蔵人「大丈夫かっ!?」

 コクリ、と頷いた。

蔵人「すまん、考えが甘かった。あんなでかい鹿を相手にするなんて」

月絵「いや、私も……それに賛同した。私も悪い……」

蔵人「それを制するのが俺の役割だったから、俺が悪いんだ。とにかく怪我がなくて良かった」

 自惚れがあったのかもしれない。盗賊を退治できたという、醜い自惚れが。自信があったのかも知れない。自分の判断は正しいのだと、愚かな自惚れが。

 蔵人は鹿に目線を移した。

蔵人「この鹿をどうすっか」

 月絵は矢を抜き取りながら、淡々と答えた。

月絵「解体するしかないわ。ここで無駄にすれば、ただ殺しただけになる」

 その冷徹な言葉に、蔵人は少し安堵した。

蔵人「……でけえな。これで何人分食えるんだろうな」

 呟きは独り言のようで、同時に月絵に向けた問いでもあった。

月絵「五百人に分ければ、一日で消えるわ」

 その現実的な答えに、蔵人は苦笑した。

 命を奪っても、ほんの一瞬の糧にしかならない。それでも、奪わなければ生きられない。

 川のせせらぎの音が、やけに遠くに聞こえた。

蔵人「まずは、みんなを呼んでくるか。下流に、水くみ場より下流で解体しないと、な」

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