第9話 幽玄の二ツ月
日も暮れてしばらくした、月の明かりが嫌に明るく見える、深い夜の帷が降りた頃、蔵人は小便がしたくなって目が覚めた。
コンクリートづくりの校舎は足音をよく反射する。余計なほど音を拡散するので、誰かが動いているとすぐにわかった。
不気味なほどに静かな中に反射するその足音は、足音の主にすら恐怖を与える。
蔵人「トイレは水を流せないから、くせええなあ」
文句は言うが、外に行くのは億劫だった。
窓からふと空を見上げると、星々が散らばる夜の空に、月が二つ登っている。それが否応なくこの場所を地球ではないと教えるのだ。
蔵人「それでも月は綺麗だ」
蔵人は自分に言い聞かせるようにそういった。
自分の寝床に帰ろうとするが、眠気が少し覚めてしまったので、どうしたものかと思った。
階段を上がって、屋上に上がった。
月を、見るために――
楓「あっ……」
蔵人は驚いて固まった。思いもよらない先客が居たからだ。
バツが悪くなって、頭をかいて、あたりを見渡した。蔵人はこの生徒会長紫宮楓が、誰か男子生徒と逢引をしているのかと思ったのだ。
しかし誰も居なかった。
ならばと、何を遠慮することがあるのかと、蔵人は自分に言い聞かせた。無駄に胸を張って堂々と、屋上に居ることにしたのだが、すぐにシュンとなって、楓とは離れた場所で空を見上げた。
美しい星々が宝石のように散らばる夜空を見上げても、蔵人の心は晴れなかった。
木々が風に煽られる音が、さざなみのように聞こえる。まるで大海の中を一人で彷徨っているような孤独が、蔵人を包み込んだ。
それは楓も同じだった。
楓は蔵人に近づいて話しかけようとするが、何を話せばいいか解らなかった。
蔵人「なんだよ……」
楓「べ、別に……その、なにをしていらっしゃるのかな、と……」
蔵人「空を見てるだろ」
楓「そう、ですわね」
深い沈黙が二人の間を吹いて抜けた。
楓も蔵人に習って空を見上げる。二つの月は、地球で見る月よりもずっと大きく、クレーターすらくっきりと見えた。その幻想的な光景は現実感を鈍らせるが、ふとなびいだ風が体を冷やすと、しっかりと現実に引き戻してくれた。そのたびに、幸せな夢から覚めたような、そんな心持にさせられる。
――これが夢ならどれほどいいだろうか
楓が目線を地面に戻した時、その悲しげな横顔を蔵人は見ていた。
蔵人「お前、いつも夜屋上に来てんのか?」
突然話しかけられたので、楓は少し驚いた。
楓「たまに、寝付けない時などに……」
蔵人「俺は今日初めて来たよ」
楓「そう、ですの……」
蔵人「こういう、なんて言うのかな、非日常感? 修学旅行とかで、皆が寝静まった後に、一人で屋上に上がるシチュエーションって憧れてたけど、なんか思ったほど楽しくないな」
楓「ここに来てから、楽しいなんて思ったことは一度もありませんわ」
蔵人「それはそう」
楓「今頃、日本はどうなっているのでしょうね。私達がいなくなって、大騒ぎしているのかしら」
蔵人「校舎ごとキャトられてるからな。大騒ぎも大騒ぎだろう。もしくは、俺達はコピーで、日本にはそのまま俺達の本体が生活しているのかもな。教師がなぜかいないのも不自然だしな」
楓「怖いことをおっしゃらないで!」
蔵人「この現実より怖いことなんてないだろ!」
楓「ううっ、それはそうですけど……」
蔵人「俺なんて下手したら、巻き込まれていることすら認知されてないかもしれないしな。仮に戻ったとしても、どんな扱いをされるんだ……? 失踪していたニート扱い、なんだろうなあ」
楓「それは……まあ……」
蔵人「買い物に行っただけなのにぃ……ううっ」
楓「……」
蔵人「もしかして、犯人扱い……? で、でもでも、一般ニートに校舎を丸ごとキャトルミューティレーションすることなんてできるわけないし……つーかできないし、伝説のスーパーニートだったとしても不可能と言うか、そもそも人間には不可能と言うか……」
楓「ま、まあ、少し落ち着いたほうがよろしいのではないかしら?」
蔵人「はあ、全くとんでもねえよ」
また静寂が二人の間を包んだ。しかし、もう空は見上げない。
蔵人「お前さんは立派だよ。みんな生徒会に従ってるのも、多分あんたの人望なんだろうな。いい噂はよく聞く」
楓「ぜんっぜん、そんなことありませんわ。やることなす事裏目に出るばかり。慎重がすぎると、自分でも反省していますわ」
蔵人「慎重ってのは、別に悪いことじゃないだろ」
楓「それでも、もっと早く行動に移していれば……」
蔵人はその言葉を、苦い思いをしながら聞いていた。楓の言ったその言葉は、蔵人の人生の言葉だったのだ。
蔵人「行動したことが、凄いんだよ」
楓「そうかしら……」
蔵人「俺があんたなら、きっと全てを投げ出して、部屋に閉じこもってたよ。だから凄いんだ」
楓「……」
蔵人「頑張れよ生徒会長、あんただけが頼りだ」
楓「その重圧に押しつぶされそうですわ……」
蔵人「きっと大丈夫さ。お前だけじゃない、周りの人間に頼ってやっていけば、な。お前らは、運も実力も持ってるんだから」
楓「運がいいなら、こんなところには来ていないのでは?」
蔵人「それは、それってやつだろ!」
楓は立ち上がって、前を見る。
楓「あと! そのお前だの、あんただのというのはやめてくださる? 私には紫宮楓という名があるのよ?」
蔵人「楓、カエデちゃん?」
楓「ちゃん付けはやめてくださらない? キモいですわ」
蔵人「おじさん今のは傷ついたよ……」
ガタッ――
一瞬、大きな物音が、二人の会話を遮った。
張り詰めた空気が二人の間に広がった。口を閉じて、忍び足であたりを見渡した。
校庭の、校門に三つの光源が見えた。
楓「不良生徒が、夜の森へ探検でも出かけたのかしら」
蔵人「いや、あれは松明だ。懐中電灯じゃない」
楓はビクッと、身を震わせた。
蔵人「楓はみんなを起こしに回ってくれ。万が一ってことがあるからな」
楓はコクっと頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます