5-6

 記録会の全日程が終了した。

 涼介、有紗、美波の三人は駅を降りて自宅への帰途に就いていた。

 それぞれに記録を書き入れた賞状を貰い、美波は道中でも賞状を広げて瞳を輝かせる。


「すげーよ。あたしが賞状持ってるぜ、すげーよ」


 自身の名前の入った賞状に美波ははしゃいだ声を出す。

 記録会の賞状は頻繁に授与されている有紗は迷惑そうに眉根を顰める。


「東さん、はしゃぐのは家に帰ってからにしてください。私と涼介くんまで同類だと思われるじゃないですか」

「あ?」


 有紗の苦言に美波は涼介越しにガンを飛ばした。

 いつもなら強気に有紗は睨み返すのだが、この日はいがみ合う気力が無いように視線を外した。

 美波の方が拍子抜けしてしまう。


「んだよ、いつもみたいに突っかかってこいよ?」

「気分じゃありません」


 それだけ告げると、涼介の袖を引っ張った。

 涼介が振り向くと彼に耳打ちして黙り込んだ。

 有紗の言葉を聞いた涼介は美波の方へ顔を向ける。


「東さん。今は平野さんに話しかけないであげてほしいな。記録会で疲れたらしいから」

「自分の口で言えよ。師匠を伝言に使うんじゃねえ」


 涼介を仲介したこと自体に美波は機嫌を損ねた。

 まあまあ、と涼介は苦笑いで窘める。


「思ったような記録が出せないと疲労感が勝つからね。僕も実際に疲れたしね」

「ってことは師匠も思ったような記録を出せてないのか?」

 気づいたように尋ねる美波に、涼介は苦笑いのまま頷いた。

「まあ、そうだね」 

「それはすまねぇ。無神経だったな、ごめん師匠」


 涼介の苦笑を見て美波はばつが悪そうに視線を落とした。

 東さんが謝ることは何もないんだよ。

 涼介は心の中で弟子に謝らせてしまう自分の不甲斐なさを感じた。

 なんで堂々としていられないんだろう。

 涼介自身、記録更新できず落ち込んでいるのだが、落胆を美波に察せられてしまうのが悔しかった。

 師匠なら師匠らしく弟子の喜びを祝福してあげないと。

 大丈夫だよ、と涼介は自然と口にしていた。

 自分の口から出た言葉の意図に気が付き、続けて口を動かす。


「そんなことより僕は東さんが嬉しそうで良かったよ。東さんは今日の記録会に向けて頑張ってたからね、師匠として誇らしいよ」

「……ありがとう師匠」


 涼介の賛辞に美波は虚を突かれたような顔をしながらも礼を返した。 

 うん、これでいい。

 涼介は自身に言い聞かせた。

 東さんが気を遣うことじゃない。記録更新できないのは僕だけの問題で、東さんは自分の目標を達成できたんだから祝ってあげないと。


「おめでとう東さん。今日の結果は東さんの努力の賜物だよ」

「師匠が教えてくれたからだ。あたしなんて」

「僕の教えなんてきっかけに過ぎないよ。今回の結果を考えると、東さんはもう僕の弟子を卒業していいと思うよ」


 師匠でなくなれば、東さんが僕に気を遣う理由もなくなる。

 涼介が免許皆伝を言い渡した途端、美波が呆然として歩みを止めた。

 美波のショックを受けた表情を見て涼介の方も足が固まった。


「そこまで驚くことないよ。僕、酷いこと言ったかな?」

「いや……」


 不安になる涼介に美波はそうじゃないと言いたげに首を横に振った。

 涼介と美波の微妙な雰囲気に有紗までも立ち止まってしまい、完全な沈黙が三人の間に降りた。

 言いづらそうに涼介から視線を逸らしながらも美波が小さい声で沈黙を破る。


「あたしは、卒業したいなんて、思ってない」


 それだけ告げて、また押し黙ってしまう。

 涼介は美波の訴えに胸が苦しかったが、かろうじて返答を探して口を開く。


「慕ってくれるのは嬉しいけれど、東さんは僕の弟子になるんじゃなくて、自分を変えたくて僕の弟子になったんでしょ。変われたと思うなら、その時はもう僕の元を離れるべきだよ」

「……あたし、変われたのか?」

「変われたよ、師匠として断言する。初めは記憶できない数を今では楽々と覚えられるようになったじゃないか。そのおかげで記憶会で賞状ももらえた」

「けど、こんなの師匠に比べたら……」

「これ以上教えられることもない。そんな人間が東さんの師匠で居続ける意味はないんだよ」


 涼介は悲しそうな美波の顔に胸を痛めながらも本音をぶちまけた。

 美波は俯き、涼介の言葉を受け入れたようにこくんと頷いた。

 再び降りそうになる沈黙を察して有紗が口を動かす。


「涼介くんは決して東さんのことを嫌ってこんなこと言ってるんじゃないですよ。師匠であるの意味を無くすほどに、東さんが成長したということなんです。もう涼介くんを師匠と呼ぶ必要はないんです」

「……そうか」


 有紗の言葉を受けて美波は腑に落ちたように呟いた。

 涼介に向かっておもむろに顔を上げる。


「師弟関係がなくなっても、たまに話しかけてもいいか?」

「僕の方は構わないよ」

「それならいいんだ」


 すべてのことが納得できたように美波は力強く頷いた。

 表情から悲しみの色は消え、晴れ晴れとした笑顔が浮かぶ。


「これからは友達だな。涼介」

「えっ、ああ、うん」


 唐突な友人宣言に涼介は戸惑いがちに返事をした。

 有紗が不愉快そうに眉を顰めたが、折悪しく美波だけが分かれる曲がり角まで差し掛かってしまった。


「じゃあな、涼介」


 美波が上機嫌のまま涼介に手を振ってから自宅へと繋がる道を入っていった。

 あっという間にいなくなってしまった美波に涼介は呆気に取られていたが、やがて微笑んで美波の残像が見えるかのように路地を眺める。

 涼介の嬉しさと寂しさの混じったような横顔を目にした有紗が、関心を向けさせようと涼介の袖を引っ張った。


「涼介くん!」

「ん、あ、何?」


 びっくりした声を出してから涼介は振り返る。

 有紗は不服そうに唇を尖らせた。


「友達という単語がそんなに響きが良いですか。東さんが友達なら、私はなんだというんですか?」

「平野さん、ええと、友達かな?」

「迷うだけでもひどいです」

「ごめん」


 不平を述べ立てる有紗に涼介は素直に謝った。

 だが涼介の声の後は会話が途切れ、涼介と有紗の間を沈黙が包んだ。

 空元気で喋っていた二人は互いに地面へ視線を落とす。


「今回は残念でした」


 小声で有紗が呟くと涼介は頷きだけを返した。


「東さんだけでも目標を達成できたことを良しとしましょう」

「そうだね」


 思ったような記録を残せなかった二人にとって今回の記録会は散々なものだった。それでも美波の喜色に水を刺すようなことだけは避けたかった。


「涼介くんは、また明日からもトレーニングですか?」

「うん。数字と単語記憶の大会があるから重点はそっちになるけどね」

「頑張ってなんて無責任なことは言いません。話し相手が欲しくなったら、いつでも私が相手になりますから」

「ありがとう平野さん……帰ろうか」


 目に染みるような夕暮れに気が付いて涼介の方から促した。

 はい、とだけ有紗が返して、あと少しだけ同じ帰路を二人で歩いた。

 成長して前に進んだ美波の陰で、涼介と有紗は元通りの日常に戻るのだった。

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