2-2

 前日と同じファミレスに有紗を連れてきた涼介は、隅の席で手持無沙汰に腰掛けている美波を見つけて慎重に歩み寄った。

 涼介が話し掛けるよりもさきに振り向いた美波の目が険しく眇められる。


「師匠。誰だそいつ?」


 美波の睨むような目に出くわした涼介は背筋が冷えるのを感じながらも、勇を鼓して有紗のことを説明するため口を開く。


「えっと。その、同じ学校で僕のメモリースポーツ仲間の平野さん」


 涼介に紹介された有紗だったが、目の前の美波に驚愕の見上げる視線を向けたまま固まっていた。

 予期しない生徒の同伴に美波は不服そうに眉根を顰める。


「あたしは師匠とだけ約束したんだ。いくら師匠の知り合いでも師匠以外から教えを受けるつもりはない」

「怒らないでね東さん。僕が指導を放棄するわけじゃないから」


 美波が癇癪を起こすまえに宥める涼介。

 そんな低姿勢の涼介を有紗が不思議そうな目で眺め小首を傾げた。


「涼介くん。師匠なんですか?」

「あ、うん。昨日からそういうことになったんだ」


 有紗の質問に首肯し、継ぐべき言葉が思いつかず微苦笑した。

 涼介の返答を受けた有紗は、涼介と美波の関係性を考えるように両者へ窺う目を送る。


「涼介くんが師匠ということは、弟子がこちらの女子生徒ですか」

「一応、そういうことに……」

「あたしは東美波だ。昨日から師匠の弟子になった」


 煮え切らない涼介の返事が言い終る前に美波が声を被せて名乗った。

 東美波、と有紗は反芻し、驚愕の事実を思い出したように大きな目をさらに大きくして美波を見る。


「その名前聞いたことあります。一匹獅子の東って噂になってる人ですか?」


 男子達が勝手に付けた通り名を口に出した途端、美波の視線が剣呑に細められる。

 美波の表情の変化に危険を感じ取った涼介がぎこちなく笑みを作った。


「怒らないで、怒らないで東さん。平野さんは東さんのことを他人に言いふらすような人間じゃないから。それにメモリースポーツの実力も申し分なくて、僕の指導の手助けになってくれるような人だから、あまり気を悪くしないで」

 機嫌を損ねさせないよう努める涼介の訴えが通じたのか、美波の眼差しから剣呑さが消えて、代わりに疑いが籠められる。

「師匠が認めてるぐらいだから、この女も凄いのか?」

「平野さんはメモリスポーツの女子部門の日本記録保持者なんだよ」

「でも師匠の方が上だろ?」

「そんなことはない、と……」

「涼介くんと比べられたら身に余ります。涼介くんは私の何倍も優秀ですから」


 謙遜する涼介の言葉を遮って、有紗本人が誇らしげに涼介を褒めたたえた。

 有紗の返答を聞いた美波が驚愕に打たれたように口を開ける。


「りょ、りょ、涼介くん?」

「はい。涼介くんは私じゃ及びもつかないぐらいの実力です」

「名前呼び、してる。名前呼び!」


 有紗は涼介の力量を褒めているのだが、美波は全く方向性の違うことに関心を向けて驚いている。

 美波の驚きように気を良くして有紗は涼介への賛辞を追加する。


「涼介くんは日本メモリースポーツ界の神童ですから。そんな涼介くんと同じ学校に通うことができて私は嬉しい限りです」

「そんな神童を名前呼びなんて……あたしにはできねぇ。恐れ多い」


 数々の男子生徒を屈服させてきた美波が涼介という存在に委縮している。

 しかし当の涼介は話し出すタイミングを掴めず、有紗と美波を交互に眺めながら時期を計っていた。

 これじゃ話が先に進まないなぁ。


「涼介くんは中学三年生にして当時の日本記録を更新していて、タイマーを止めた瞬間の涼介くんの姿ときたら不安など微塵も感じさせず凛々しかったです」

「神だ。神じゃねぇか。師匠は神なんだ。話しかけるのもおこがましい」

「涼介くんといえばトランプでの記録ばかりが注目されがちですが、その他の数字や単語、諸々の記憶競技でも実績があるんです。これは涼介くんの詳細な分析に裏打ちされた結果なんです」

「記憶王だ。額づきたくなってくる」


 こんな調子に涼介本人そっちのけで嚙み合わない会話を続けること約五分。ようやく有紗が涼介を振り向いた。


「涼介くん。お聞きしたいことが」

「何かな、平野さん」


 待ちくたびれた態度を表に出さないように努めて涼介が要件を促すと、有紗は美波をちらと見てから質問を口にする。


「東美波さんが涼介くんのことを師匠と呼んでいますが、もしかして涼介くんはメモリースポ―ツを教えているんですか?」

「そうだね。昨日から教え始めたばかりだけど、東さんに頼まれて」


 涼介が答えると、有紗はウキウキと両腕を胸の横で揺らした。


「それは面白そうですね。私も東美波さんいろいろと教えてあげたいです」

「……師匠は一人だけでいい」


 有紗の言葉に被せるように美波がはっきりと告げた。

 自身の希望を真っ先に拒否された有紗が美波を振り返るも、美波の視線は涼介に真っすぐ向いている。


「あたしは師匠に指導を頼んだんだ。他の人に教えてもらうつもりはない」


 美波の強固な意志を宿した眼差しとかち合い、涼介は内心で当惑した。

 どうしてそこまで僕のことを信頼しているんだろう?

 確かに自分は日本記録保持者であり、国内のメモリースポーツ界では一位の座にいるかもしれない。

 けれども僕は他に誇ることがない普通の男子高校生だよ。

 身に余るほどの信頼を前にして涼介が黙っていると、有紗が申し訳なさそうな目を美波に向けた。


「面白そう、と言ったのが気に障ったのなら謝ります。でも私はふざけているつもりはありません」

「あ?」


 発言の意図が解せないという顔で美波が眉根を寄せて聞き返した。

 有紗は相手がどんな噂のある人物か知っているにもかかわらず恐れず向き合う。


「涼介くん一人に負担をかけるわけにはいきません。だから私も東美波さんへの指導に協力します」

「師匠、あたしに教えるのは負担なのか?」


 有紗の言葉を否定したいような不安の浮かんだ目で美波は涼介を見る。

 涼介は微笑みかけた。


「そんなことないよ。負担だなんて思ってな……」

「涼介くんは優しいからそう答えると思ってました。でも記録会が近い今の時期ぐらい自分に正直になっても構わないはずです」


 涼介の返答を見抜いていた有紗が諭すように訴えかける。

 平野さんの言う通りなんだよな。本心で言えば記録会のための練習に時間を使いたい。

 涼介は心の中では有紗の考えに納得していた。だが、生来の人の好さが本心を覆いかぶさり彼のお人好しを作り上げている。

 本心を有紗に見抜かれてもなお涼介は美波への微笑みを引っ込めはしない。


「記録会が近いことが本当だよ。だからといって東さんへ教えることが負担になるなんて思ってないよ。安心して」

「けど師匠。こいつの言う通りだ」


 美波は安心するではなしに有紗の発言を支持した。

 まさか美波に同意されるとは考えていなかった有紗が驚く中、美波は有紗の方へ視線を移す。


「平野、だったっけか?」

「あ、はい。なんですか?」

「師匠のためになるなら師匠じゃなきゃダメなんて我がままは言わねぇ。平野に協力してほしい」


 美波が頑固な意志に折り合いをつけた。

 はい、と有紗は誠実に頷く。


「涼介くんの助手という形になりますが、ご協力させていただきます」

「ごめんね平野さん。平野さんだって都合があるのに」


 涼介は詫びたが、有紗は涼介を振り向いて微笑みかけた。


「気にしないでください。私が勝手に涼介くんのためだと思ってお願いしただけですから」

「無理に僕に合わせなくてもいいからね、平野さん」

「涼介くんの方こそ、東さんに頼まれたからと言って我慢しないでくださいね。場合によっては東さんのことは私に一任してもらっても構いません」


 気遣いを通り越して本当にそう思っている口調で言った。

 有紗の言葉を聞いていた美波の青筋が段々と浮き上がってくるのに、有紗も涼介も気が付いていない。


「そういうわけにはいかないよ平野さん。僕が丸投げしたら今度は平野さんに負担が掛かっちゃうじゃないか」

「記録会は日程が決まっていますが、東さんの件に期限はありませんから。涼介くんじゃなきゃいけないほど切羽詰まっていません」

「でも東さんは僕に指導をお願いして、僕が受け入れたから。お願いされた本人がいないのは東さんの意欲に対してい悪いよ」

「オイ、ゴラァ!」


 突如、美波の凄まじくドスを利かせた怒声が店内に響いた。

 涼介と有紗は喋りかけて開けた口を塞ぐことも忘れて、美波の憤怒に身震いする。


「あ、東さん……僕が何か?」


 恐る恐る涼介は美波の方を窺う。

 美波は青筋を如実に浮き立たせた顔で涼介を見てから、獲物を釘付けにするような獰猛な目で有紗を睨んだ。

 標的にされた有紗はがくがくと怖気を振るう。


「おい、平野。師匠に提案してんじゃねーぞ」

「……で、ですけど」


 有紗は狂暴な大型獣を前にした子猫のように身を震わせながらも、勇敢に意見しようとする。

 だが、美波が優位な上背を見せつけるように一歩近寄ると、言葉を慎み口元をわなわな慄かせる。


「平野、なんか言えよ?」

「ひぃやぁ!」


 沈黙を嫌った美波が問いかけた瞬間、恐怖のダムが決壊してしまったように有紗は悲鳴をあげて涼介の腕に縋りついた。

 涼介に縋りつく行為がよりいっそう美波の怒りを増幅させ、彼女のこめかみから切れる音が聞こえてきた。


「師匠にベタベタすんなぁ、ああ? その腕へし折るぞ」


 怒声とともに美波はあらん限りの膂力で握った拳でテーブルを叩きつけた。

 不意な衝撃音に店内にいた他の客や店員が肩を上ずらせて、揃いぞろい美波たちの方へ泡を食った視線を投げてくる。

 有紗同様に凍り付いていた涼介だったが、周囲から注目が集まっていることに気が付き恐々と美波へ声を掛ける。


「あ、東さん。みんな見てるから」


 静かにしようよ、とは恐くて言えない。

 しかし相手が涼介だからか美波はしばし沈黙した後、急にしおらしく俯いてテーブルを叩いた手を下ろした。


「すまねぇ師匠。うるさいよな」

「……時間がもったいないから始めようか?」


 涼介が促すと大人しく首肯して、静々と席に腰掛けた。

 美波の不良という評判からは考えられない従順な様子に、脅された有紗が驚きの眼を見張る。


「涼介くん、飼い慣らしてます」

「言葉選びがよくないよ。東さんからすれば僕は一応師匠だから敬ってくれているだけだと思うよ」

「涼介くんと一緒なら恐がる必要ないかもしれませんね」

「僕もさっきはびっくりしたけど、きっと大丈夫だよ平野さん。東さんは真剣に僕から教えを受けようと思っているみたいだから。学校での噂は気にせず僕たちの知識や経験を東さんに教えてあげよう」

「そう、ですか。涼介くんがそう言うのなら信じることにしましょう」


 安心させるような涼介の言葉を信用し、有紗は多少の戸惑いは見せつつも美波の斜向かいの席に腰を下ろした。

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