吸血探偵アリア ― 血を吸えば、記憶が見える ―

桃神かぐら

第1話 血の中の目撃者

 雨は細く、長く、同じ速さで落ちていた。

 屋敷の表門には封鎖線、瓦礫ほど頑なな無言、濡れた石畳の匂い。街灯が二つ、光の円を重ねる。その輪の縁にルシアン・ヴァイス警部の影と、セリス・ノート巡査部長の赤い髪。二人はほとんど会話を交わさず、ただ視線を正面の暗がりに固定している。そこから、雨に濡れた少女が歩いてくるのを知っていたからだ。


 アリア・ヴェルノート。

 傘は差さない。濡れた黒髪が頬に張りついても、歩幅は乱れない。視線は低い位置を水平に滑る。観察対象はいつも地面から始まる。

 半歩後ろをノア・グレイ=アークが歩く。薄い色の瞳、無言。アリアの歩幅に合わせることに慣れている男だ。


「二十二時三十八分。呼び出しから四十二分」ルシアンは時計を見ない。時間というものは、現場の空気に刻まれるものだと知っている。

「血は、まだ息をしている時間」アリアは雨の匂いに混じる鉄分を吸い込んで、短く答えた。

 被害者は屋敷の主人、エドモンド・ハート。死因は胸部刺創、即死。現場は書斎、内鍵。窓は施錠、凶器不明。屋敷内の人間は四人――娘のイリナ、婚約者のヴェラ、家庭教師のマロウ、執事のオルド。


「先に言っておく。君が作る“映像”は証拠にならない」ルシアンの声は乾いた紙のようだ。「法廷に出せるものを、俺に渡せ」

「承知」アリアの声には抑揚がない。だがノアは微かに口角を動かす。彼女の「承知」は、やれるという意味だ。


 重い扉が、吸い込むような音を立てて閉まる。

 書斎は濃紺の壁紙。書架は背の高いものが二列、窓は重いカーテンに覆われ、スタンドライトは低い光を落としている。古い鏡が一枚、壁に掛かっている。

 カーペットには暗い花が咲いていた。血は散らず、まとまって咲いたのだ。噴出の仕方は、刃が短いことを示している。

 机上にはグラスが二つ。片方からベルガモットの香りが立つ。もう片方は香りが薄い。口元の形状も違う。片方は唇痕が湿っている。


 アリアは膝をついた。

 床に指を触れる。手袋越しに、微細な面の凹凸が伝わる。乾きはまだ粗い。

「――滴鎖(ドロップ・チェイン)」

 床の微小な飛沫が、逆再生のように空へ戻る。赤い粒は糸になり、糸は空中に文字のような線を描く。線の角度が、動線の角度だ。


「血痕共鳴(ヘモ・レゾナンス)」

 赤が震え、部屋の静圧が半歩落ちる。薄紅の幻像が、重ね焼きのように空間へ滲む。短い呼気、肩の線、左側からの接近。その後、鏡。

 アリアは立ち上がり、鏡の縁を指でなぞった。指先に、磨剤の粒子と――脂分。

「磨きは甘い。事件直前に触れられている。二度」

 セリスが身を乗り出す。「誰が触ったの?」

「まだ。――記憶抽出(メモリ・ドレイン)」


 アリアは湿った唇痕から、一滴だけ採取する。

 赤が灯る。映像が滲む。液面の細波、ベルガモット、鏡の向こうに立つ人影。顔の部分だけ、光の筋で裂けて見えない。

「角度」アリアは言う。「犯人は自分の顔が映らない角度に鏡を寝かせている。触れたのは二度。一度目は被害者の背後に立つため。二度目は顔を外すため」

 ルシアンは短く頷く。言い訳の余地がありそうな情報ほど、後で効く。


 アリアは床の鼓動に耳を澄ませる。

「脈聴(パルス・リーディング)。……恐怖より怒りが強い。視界は安定。高い位置から、揺れない視野」

「ヒールで背丈を補正した?」と、白衣のミラ・カルミナが入ってくる。法医研究室の技術官だ。持っているのは携帯型ヘモスキャナー。

「なら重心に揺れが出る。これは鏡越しの目撃」アリアは鏡を見ずに鏡を言い当てる。


 壁時計が一つ鳴った。犯行推定からぴったり三十分。

 アリアは鏡の角度を、ほんの数ミリ戻す。

「この部屋、まだ息をしてる」


 ノアは見守る。彼の役目は、アリアの沈黙を保護することだ。必要な言葉だけを取り出し、必要な場所へ運ぶ。

 セリスはメモを取りながら、アリアの横顔を見つめた。冷たい横顔は、時々、わずかな熱を帯びる。今がそうだ。


     ◆


 容疑者は四人。

 イリナは父の遺言で婚姻に厳しい条件がついている。資産移転には父の同意が不可欠。父は彼女の交際に厳格で、客を選んだ。

 ヴェラは婚約者。左手薬指に赤い石をはめている。今日は来客ゆえに装着したという。香りはベルガモット。

 マロウは家庭教師。右利き。香りは同じベルガモットだが、カラブリア産を好む。右手に赤石の指輪をしている。

 オルドは執事。香りは持たない。足音が静かすぎるのは彼の職業病だ。


 セリスは人間の匂いを拾うのが上手い。彼女はそれを“温度”と呼ぶ。

 廊下で聞き込みを終え、息を弾ませて戻る。「ヴェラの外套からカラブリア。ただし彼、右利きで、左手の赤石は祖母の形見。今日だけだって。あと、左耳がちょっと悪いから、会話ではいつも右側に立つって」

 ルシアンは視線だけが動く。「右側に立つのが癖……か」


 ミラは机上の二つのグラスへスキャナーを向ける。「片方から幸福麻痺毒の微量反応。味はほぼない。口角をわずかに上げる作用がある」

 セリスが顔を上げる。「被害者の口元、少し笑ってました」

「抵抗を鈍らせる意図」アリアは頷く。「刃は短い。深追いの傷がない。一撃で終わらせる構図」

 ノアが静かにまとめる。「そして鏡。二度の角度。顔を外す意図」


「視記縫合(メモリ・スティッチ)」

 アリアは三種の血――床血、グラスの唇血、カーテンの微細飛沫――を空中で絡める。赤いラセンが重なり、映像は厚みを増す。

 肩、指、赤い指輪。

 ――その横に、もう一つの赤。

 アリアは指先で像を止める。「反射。鏡の左右が反転している。記憶では左に赤石だが、実際は右。右手の赤石、右利き、カラブリア」

 セリスが手帳をめくる。「該当はマロウ」

 ルシアンは即座に言う。「待て。動機と手段の線を埋める。法に足場を作れ」


 そのとき、屋敷がふっと暗くなった。雷だ。

 同時に、廊下の奥から水音。

 アリアは扉に向かって歩き出す。走らない。急ぐと見落としが出ることを、彼女の頭脳は知っている。


 洗面所には漂白剤の匂い。排水口に泡が残っている。

「遅い」

 手の甲で空気を切る。「滴鎖」

 見えない赤微粒子が逆流し、空中に浮かぶ。アリアはその一つを摘み、掌で**凝血封印(コアグル・ロック)**をかける。結晶が小さく鳴った。

「偽血(フォージド・ヘモ)も混ぜた。でも本物が勝ってる」

 赤が、言葉になる。

 低い男の声が、泡の間から漏れる。

 ――君のためだ。


 ノアが短く息を止めた。

 アリアは目を開け、ふり返る。「マロウ。目的はイリナの資産凍結を解く鍵。父を排して、代理申請の権限を取る。幸福麻痺毒で抵抗を鈍らせ、鏡の左右反転で“左の赤石”に見せかけた」

 ルシアンは頷き、指示を飛ばす。「セリス、婚姻条項と家庭教師契約。監護権と代理申請の条文を引け。ミラ、毒の残留と濃度。ノア、採血ログと時刻。鏡の縁の皮脂成分も採れ」

「了解」


 動線が動く。

 アリアは書斎に戻り、鏡の縁を二度なぞる。脂分の付き方が違う。最初は左上、次は右下。押し方が右手だ。鏡はおそらく、背後に立つ図を作ったあと、犯人の顔を外す図で止められた。

 机上のグラスの表面張力は片方だけ崩れている。毒を入れたほうだ。香りはカラブリア。

 記憶の呼吸が、まだ早い。


     ◆


 公開再現は深夜一時に行われた。客間。四人の容疑者は等距離に座らされ、ルシアンは壁際に立つ。ミラは観測装置を準備し、セリスは記録のチェックリストを黙々と読み上げる。ノアは扉近くで、いつものように立ったまま静かに。


 アリアは観測鏡(オブザヴァー)の前に立つ。

「血流操作(ヘモ・カレント)」

 カプセルの血が薄膜となって空中に広がり、幾何学を描く。

 映像が立ち上がる。

 書斎。雨音。二つのグラス。ベルガモット。

 男の肩。右手の赤石。短い刃。幸福麻痺毒で緩む口元。――鏡。

「ここ。一度目」アリアは鏡の縁を指す。「被害者の背後に立つ図。像が枠の中心に来る角度」

「二度目」ミラが続ける。「同一人物が顔を外す角度へ、右手で押した痕跡。脂肪酸の構成が一致」

 ルシアンは資料を掲げる。「排水口から本物の血。漂白は希釈率が甘い。慌てた証拠。科学鑑定は今の場でも示せる」

 セリスが書類をめくる。「婚姻条項。父死亡時、監護人として家庭教師が資産凍結の一時解除申請を代理できる。署名は本日付。マロウの筆跡は鑑定一致」

 ノアが静かに言葉を置く。「あなたは“君のためだ”と言った。けれど、血は失われた」


 マロウの視線が、逃げ場を失って壁を探す。

「……彼は彼女を籠に閉じ込める。金も人生も、すべて支配する男だ。私は、鍵を奪おうと――」

「君のためだ」アリアが言葉を継ぐ。「血がそう記録した。でも、血は正義ではない。事実だ」

 男は崩れ、右手の赤石を外した。

 ルシアンは逮捕の指示を短く落とす。金属の冷たい音が、雨上がりの空気に溶けた。


 空気が緩んだ瞬間、アリアの視線が再び鏡へ戻る。

「……終わりじゃない」

 ルシアンが目だけで問う。アリアは鏡縁の内側を指した。

「三度目の微細な磨き傷がある。これは事件前。角度は今夜と同じ。屋敷の日常清掃では付かない粒子。個人の鏡磨きの癖」

 セリスが息を呑む。「誰の?」

 アリアは静かにイリナへ顔を向ける。

「あなた。父の監視を鏡越しに避けるため、日常的にこの角度を作っていた。婚約者ヴェラと話すとき、父の視線が映らない**“隠れ角度”を。――共犯ではない。けれど、今日の左右反転トリック**の基礎には、あなたの生活が使われた」


 イリナの睫毛が震え、涙が滲む。

「……知らなかった。マロウが父を傷つけるなんて。わたしは、ただ、見られたくなかっただけ。父はいつも、扉の隙間から鏡を見て……」

 ヴェラが立ちかけて、立てなかった。左耳に手を当て、唇がかすかに動く。「僕は――」

 アリアは首を横に振る。「あなたではない。左耳のため、会話では常に右側に立つ。鏡の反転が、あなたの位置を左に見せた。あなたは条件に使われたけれど、手は汚していない」

 ルシアンはため息をひとつ、肺から押し出す。「供述は後で整える。君(イリナ)は被害者でもある」


 ここで、セリスがアリアを見た。「ねえ、あなたは、どうしてそんなに人の生活の傷がわかるの?」

 アリアは答えない。代わりにノアが、柔らかな声で置く。「彼女は血を見る。血は、生活の癖まで記録する。たとえば、磨かれた鏡の、縁のほんの一ミリが別の道具で磨かれていれば、それは“誰かの手”だ」

 セリスは小さく笑った。笑ったのは、泣かないためかもしれない。「……相変わらず、人間の言葉にしてくれて助かる」


 マロウが連行される前、ふり返ってイリナを見た。

 視線は謝罪よりも悔恨に近い。

「鍵は……君を閉じるためのものじゃない。開けるための――」

「もう、いい」イリナが震える声で遮った。「血が全部、見ていたなら、それでいい」


 ルシアンは顎を引き、短く宣言する。「逮捕」


     ◆


 玄関を出ると、雨はほとんど止んでいた。湿った空気が肺に落ちていく。

 封鎖線の外で、アリアは掌を開く。返血儀(リターナ)。結晶がほどけ、薄紅の花片のように空へ散る。血は持ち主へ返される。

 ノアが隣に立つ。「君は、人のために祈るのか」

「祈りではない」アリアは夜空を見る。「返すだけ。血の記憶を、血へ」

 彼女の声は冷たいが、冷たいだけではない。どこかに、静かな温度がある。


 ルシアンが背後から来る。腕を組み、いつもより少し長く息を吐く。「君の観測は鋭利だ。だが次も、法で通る足場を揃えろ」

「当然」アリアはわずかに頷く。

 セリスが並んで、濡れた赤毛を指でかき上げた。「アリア」

「何」

「今日は……“ありがとう”を言っていい?」

 アリアは少しだけ考え、短く言う。「血が語っただけ」

「でも、あなたが聞いた」

 アリアは返事をしない。沈黙が会話になる相手は、そう多くない。


 雲の裂け目から、微かな星が一つだけ見えた。

 アリアはそれを数えない。数える必要はない。ただ、息の数をひとつ整える。雨の匂いはまだ残り、ベルガモットは消えた。


「ねえ、アリア」セリスが笑う。「雨、やんだ」

「……息が、整っただけ」


 街灯の赤が、彼女の瞳に小さな火を灯す。

 血は静かに真実を返し、夜は少しだけ明るくなった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る