第2章

総合高校は、東西に長い市街の東側に位置する歴史の古い公立の進学校だ。その校舎に到着した鈴香たちは、放課後のざわめきの中を歩きながら、弦楽部部長の水沢美月と共に音楽室へ向かった。廊下には木の床のきしむ音がかすかに響き、遠くからは柔らかな弦楽の音色が漏れてくる。窓の外に目を向けると、街を包むように連なる山並みが夕光を受けて輝いている。

美月は音楽室と記された扉の前で立ち止まる。鈴香が窓ガラス越しに室内をのぞくと、午後の光が差し込み、譜面台や楽器の影が揺れる様子が見えた。ほこりを帯びた光は微かに反射し、空気中でわずかにきらめいている。

美月は軽く息を整え、扉を押し開いた。鈴香たちも後に続き、木の床に柔らかな足音を響かせながら室内に入った。

室内は午後の光に包まれていた。譜面台や椅子が規則正しく並び、壁際にはバイオリンケースがいくつか置かれている。微かに香る松脂の匂いと、先ほどまでの練習の余韻が空気に漂っていた。

美月は鈴香たちに向かって、部員たちを紹介し始めた。

「こちらが弦楽部の部員です。左から、ヴァイオリンの小川さん、チェロの佐藤さん、ヴィオラの藤井さん……みんな、練習熱心なんです」

部員たちは少し緊張した様子で会釈し、鈴香たちに視線を送った。

そのとき、美月が少し残念そうに呟いた。

「そういえば今日は、香澄さんは来ていないんですね」

部員たちは顔を見合わせると、一人が代表して答えた。

「はい、副部長は、今日はちょっと来られなかったみたいです」

鈴香は無言でその名前を胸に留めた。

美月の説明は続く。

「弦楽部の練習は、普段はこの音楽室で行っています。バイオリンが盗まれたのも、ここでの練習中のことです。隣には部室がありますが、そこに置いてあるのは譜面や小物類だけです。楽器は貴重品ですので、別にある準備室に保管しています」

鈴香は部長に視線を向け、スマートフォンを手に取りながら尋ねた。

「美月さん、まず事件が起きたときのことを教えていただけますか?」

美月は深く息を吸い、ゆっくりと話し始めた。

「先週の土曜日のことです。いつもどおり、自分のバイオリンを自宅から持参して練習していました。しばらく集中して弾いていたのですが、休憩のために手洗いに立ち、数分後に戻ると……バイオリンがケースごと見当たらなかったのです」

鈴香はスマートフォンを軽く握り直し、美月に問いかけた。

「事件が起きたとき、音楽室には他に誰かいましたか?」

美月は首を小さく振る。

「いいえ、土曜日は私一人で練習していました。週末は、部活は休みなんです。他には誰も音楽室にはいませんでした」

鈴香は部屋全体を見渡し、光に揺れる譜面台や楽器の影を眺め、盗まれた瞬間の状況を頭の中で再現しようと試みた。

周平も室内全体に視線を巡らせている。

「なるほど、水沢さん一人のときを狙われたんだな」

鈴香は黙ってうなずいた。誰もいない静かな部屋、綺麗に磨かれた床、窓から差し込む光に揺れる譜面台と弦楽器の影――。盗まれたのは、まさにこの空間だったのだ。


鈴香は、美月の説明をひととおり聞き終わると、部屋の片隅に集まっている部員たちを見渡して問いかけた。

「美月さんのバイオリンが盗まれた日に、何かおかしいことに気づいた人はいますか?」

部員たちは互いに目を合わせ、首を横に振るばかりだった。

「あ、そうですね。みなさんは学校に来られていないので、当日のことはわからないですよね」

鈴香は視線を伏せて一瞬考え込み、質問の切り口を変えて問いかける。

「では……最近、音楽室や部室、保管庫で気になることはありませんでしたか?」

やはり、返ってきたのは沈黙と否定の仕草だけだった。

その横で綾音も小さく口元を引き結び、目を伏せて考え込んでいた。

「……これでは手がかりはないに等しいです」

その様子を見て、周平が助け舟を出した。

「じゃあさ、みんなは普段どんな楽器を使っているんだい?」

一人の部員が少し躊躇いながら答えた。

「ほとんどは学校の備品です。でも数が少なくて、みんなで交代して使っています」

鈴香は部員たちの視線や手の動き、肩のわずかな揺れなど、緊張を示す微細な仕草に注意を払いながら、話に耳を傾ける。

「それだと、もしかして練習やレッスンが十分にできないんじゃないかな?」

と周平が訊ねると、部員は肩を落とした。

「ええ……そうなんです。顧問の山本先生からは大会で良い成績を取るようにと言われているんですけど、上手くならないまま辞めてしまう人もいます」

部員はふと口をつぐみ、やや小声で付け加える。

「美月部長は自分のバイオリンを毎回家から持ってきているので、練習は自由にできます。でも……そのせいで他の部員とは少し距離ができてしまって」

綾音は視線を鋭くし、タブレットを操作してメモを取っている。

颯太は、部員の表情や仕草を注意深く追い、部内に潜む緊張や遠慮が、事件に関わっていないかを確かめようとしているようだ。

別の部員がすぐに付け加えた。

「でも、美月部長は最近、よく香澄副部長に相談してます。二人で部のことをあれこれ話してるようですし、顧問の山本先生とも話し合ってるみたいです」

絶え間なくタブレットに情報を書き込む綾音の横で、鈴香は軽くうなずいた。

(なるほど、美月さんと部員との関係は少しギクシャクしていて、今日はお休みの香澄さんがうまく間を取り持っているのね)

音楽室の隣にある部室に移動すると、そこには譜面や小物が整然と並び、簡素ながらも弦楽部の活動を主張していた。窓の外から差し込む光に照らされ、ロッカーや譜面の表面が微かに反射する。部室内には静かな空気が漂っていた。

部員の証言を整理し、鈴香たちは次の手がかりを求めて静かに調査を進める。鈴香と颯太が中心となって質問を行い、綾音は慎重に記録した。周平は数人の部員に対して個別に話を聞いているようだ。

美月部長の証言と部員からの聞き込み結果をあわせて整理すると、単なる盗難事件では済まされないように思えてきた。

(ただの盗難ではない……何か、誰かの思惑がからんでるんじゃあ……)

何やら三月と話していた綾音が、鈴香に向き直った。

「三沢様に確認したところ、校内ネットワークには接続できないそうです。また、校内に監視カメラが設置されているかどうかも分からないとのことで、映像の有無を確認していただけるようお願いしておきました」

「いつもありがとう、綾音。本当に助かるわ」

鈴香はほっと息をつき、綾音の素早い対応に感謝の気持ちを込めて微笑んだ。

美月の高価なバイオリン、部員たちの微妙な関係、部の限られた設備――。窓から差し込む光の揺らぎを感じつつ、鈴香たちはさらなる手がかりを求めて静かに調査を進めていった。

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