7-8
――目が覚めた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井。白い壁紙に、中央でゆっくりと回るシーリングファン。
風切り音が、異様なほど静かに耳に馴染んでいる。
一瞬、ここがどこか分からなかった。――自分の部屋だ。
だが――違和感。左腕が、ある。カリムに切断されたはずの腕が。
縫合痕も、包帯も、痛みもない。
右腕も、折れていない。全身が軽い。痛みが……一つもない。
「エル!」
反射的に名を呼ぶ。――返事はない。心臓が跳ね上がる。
ベッドから飛び起きようとした瞬間、釘を打ち込まれたような鈍痛が走った。目の奥がチカチカする。視界が揺れ、足元がもつれる。
壁をつたい、重たい身体を引きずりながらリビングへ向かう。ドアノブを掴む指先が震えていた。
押し開けた瞬間、フローリングに頬を落とした。
――家だ。ぽっかりと、何もかもが抜けているような、あの感覚。エルはどこだ。
なぜ私はここにいる?記憶が――途切れている。
カリムはどうなった?あのプラントは?――腕はなぜ切れていない?
夢?
「……一体……どうなってるんだ」
頭痛を噛み殺し、よろめきながら立ち上がる。そのとき、目に飛び込んできたのは――テーブルの上。
湯気を立てる朝食。カリカリのベーコン、ハーブの香りがするポテト、きつね色に焼かれたクロワッサン。
コーンスープの表面には、小さな泡がゆらゆらと揺れている。彩り鮮やかなサラダに、香り高いホットコーヒー。
まるで雑誌から切り取ったかのような、完璧な朝食だった。全てが、今まさに作られたばかりの温度を持っている。
「……なん……だ、これ……」
頭が回らない。ただ、その光景に足が止まった。違和感と懐かしさが同時に胸に刺さり、呼吸が乱れる。
「あ、ミア! おはよー!」
その声で、心臓が止まりそうになった。――聞きたくて、どうしようもなく聞きたかった声。
キッチンに立っていたのは――エルだった。両手に皿を持ち、こちらを見て、微笑んでいる。
頭痛が、ゆっくりと消えていく。視界がにじむ。涙が頬を伝って落ちた。
「え、どうしたのミア! 熱でもあるの?」
エルは皿を置き、迷わず近づいてきて、私の額に手を当てる。大きな手のひら。柔らかく、温かい――本物の感触。
私は衝動的に抱きついた。髪の匂い、体温、背中の筋肉の感触――全部“エル”だ。
「……エルが……生きてる……」
エルだ。間違いない。エルの腕が、私を包む。体温が胸に広がる。
「……どうしたの? 怖い夢でも見たの?」
その瞳は、青く澄んでいて、曇り一つなかった。
「……あぁ。長い夢をな」
涙が、エルの肩を濡らした。
「じゃあ、ご飯食べて。切り替えよ、今日は腕を振るってたのよ!」
エルは金髪を揺らし、にこりと笑って私を席に座らせた。――息が詰まるほどだった。
素晴らしい朝食だ。エルが、いつの間にかこんなに料理の腕を上げていたなんて――いや、違う。
エルの朝食はいつも完璧だった。それでも嬉しかった。久しぶりに心から笑った気がした。
「ほら! ミアの好きなポーチドエッグ!! ちょっと失敗しちゃったけど、見て!!」
差し出された皿には――完璧なポーチドエッグ。黄身がつやつやと輝き、ナイフを入れればとろりと流れそうな理想の半熟。
エルは自慢げに笑った。その笑顔だけで胸が満たされた。
「さ! 食べよ!」
エルは軽やかにフォークを取り、食べ始めた。
私も……食べよう。大好物の、エルのポーチドエッグから――。だが、フォークが止まった。
喉に何かがつっかえる。腹は減っている。香りも最高だ。なのに――。
……吐き気がした。完璧なポーチドエッグを見ていると、胃がひっくり返る。
頭の奥で、何かが軋んだ。
「きつい? ミア。やっぱり熱があるのかな」
エルが立ち上がり、グラスに水を注ぐ。
差し出された水を飲む。だが――気分は、悪くなるばかり。寝すぎ?飲みすぎ?いや、昨日は……何を――。
――全てが繋がった。
目の奥に閃光のように蘇る、触手、チェーンソー、苦痛に歪んだエルの顔。耳を突く叫び。
「……大丈夫? 寝たほうがいいかも」
エルの声が遠ざかる。――いや、拒絶した。
私は立ち上がり、ふらつきながらキッチンへ向かった。包丁を掴む。冷たい鋼の感触が手の中で生々しく重かった。
「ちょっと!ミア、どうしたの!?」
エルの声。だが――これはエルじゃない。彼女の記憶が作り上げた、甘い幻だ。
エルのポーチドエッグはちっとも美味しくなんてない。椅子に腰を落とし、テーブルに左手を置いた。包丁を握る右手に、力を込める。
「どうしたのよミア! 何かおかしいよ!!」
――おかしいのは、この世界だ。ためらわず、包丁を突き立てた。
骨を滑る鈍い音。飛び散る鮮血が、皿やポーチドエッグを染めた。
「やめて! ミア!」
エルの悲鳴が耳を裂く。だが構わず――何度も、何度も突き立てる。ずたずたに、肉片になるまで。血と脂がテーブルを濡らし、指先の感覚が壊れていく。
痛みは――ない。無いものは痛まない。
「……ほら、痛くない」
顔を上げた。そこには、何もなかった。ポーチドエッグも、朝食も、テーブルも、部屋も。ただ一つだけ、変わらずそこにあった。
目の前にエルはいる。朝食を作ったエルではない。――肉の壁に埋め込まれたエル。
気持ちいい夢を壊したようだ。顔はしかめていた。
「……エル、怒るなよ」
声は震えていた。あの朝食も、あの温もりも、すべて幻覚だった。カリムが私とエルの脳に見せた甘美な牢獄。
だが、ここは現実。右腕は折れたままぶら下がり、左腕は――肘から先が無い。そこから迸る自分の血が、赤黒く床を染めていた。
「ごめんな……でも、起きてくれ」
私は左腕の断面をエルの口へ押し付けた。骨の髄が熱に焼かれるような激痛。脳に雷が走るたび、意識が遠のきそうになる。
だが、筋肉を緩め、心臓を一度だけ強く打たせ――血を送り出した。エルの唇が震え、歯が私の肉を噛んだ。
鈍い音と共に、温かい液体が頬を伝う――私自身の血だ。
「美味いもんじゃないけど……我慢して……もっと、飲め」
エルの喉が動く。弱々しい嚥下の音が、耳元で生き返るように響く。
「……そうだ、もっとだ……何なら全部、持ってけ」
意識が白く塗りつぶされていく。体温がどんどん引き剥がされ、全身が冷たくなった。
何も見えないし、感じなくなった頃。
『何をしてくれた……この悪魔が…』
カリムの絶叫。触手が私の首を締め上げた。頸椎がきしみ、視界に黒点が弾ける。
――その時。
「ミアをッ離せッ!」
光が走る。金色の髪が揺れ、エルが触手に体当たりした。
私を抱きしめる腕。肌の温度、鼓動――確かに、生きている。
「ミア! 大丈夫!?腕が……!」
エルの瞳から大粒の涙が零れ、頬を伝った。その一滴で、痛みも恐怖も全部剥がれ落ちる。
「……エル……戻ったんだな……全部……」
「うん……ありがと、ミア」
その笑顔は――救いそのものだった。もう一度見られた。それだけでよかった。
だが――カリムの咆哮が空間を震わせる。
『お前ら……我が強化細胞の母体を壊したな』
壁も床も天井も、巨大な心臓の鼓動のように暴れ、崩れ始めた。
エルは私を抱きかかえ、走り出す。
「ミア! やばそうだし、逃げるよ!!」
「……ああ、頼む」
背後でカリムの巨体が、肉塊の集合体となって膨張し、破裂する。だが――もう届かない。 確かにエルを取り戻したのだから。
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