7-7

床や壁から蠢き出した触手が、ぐちゅり、ぬちゅりと生々しい音を立てて周囲を囲む。空気が湿り、鉄と血と腐肉の匂いが混じって、肺を焼くようだった。

『どうかしたか?……まあいい、最後に残す言葉はあるか?』

カリムの声は甘やかで、しかしその奥に潜む狂気が、静かに牙を剥く。触手の先端が開き、裂けた肉の奥から光沢を帯びた骨刃がのぞき、まるで舌なめずりする捕食者のように動いている。

――これが、最後の賭けだ。目を閉じ、呼吸を整える。脳を灼くような痛みが走り、視界の端が揺らめく。黒点がちらつき、胃の奥がひっくり返りそうになる。

それでも、視線を逸らさず、エルを見た。 壁に磔のように埋め込まれた彼女は、目をつむり、胸だけがわずかに上下している。顔は苦悶に歪み、唇は血で乾ききっていた。

――大丈夫、今、助けるからな。

「……なあ、エルを……よく見せてくれ。これが最後なんだ。いいだろう?」

声が震えているのが自分でもわかる。触手が、一瞬だけ停止した。ぴくぴくと震え、音を立てるように一斉に道を開いた。

『ハハッ……ハハハハハ……いいだろう。見せてくれるかな、最後の挨拶を』

カリムの声が、肉の洞全体を震わせるように響いた。

エルへの道が開かれる。しかし、その両側で無数の触手がまるで観客のように嘲笑いながら蠢いていた。

唇を噛み、折れた右腕を押さえながら、よろよろとエルのもとへ歩みを進める。足元の肉がぬちゅ、ずちゅ、と這い回り、足首にまとわりつき、まるで生きた臓器を踏みつけている感触が伝わる。吐き気を堪え、声にならない息を絞る。 エルの目の前に立った。

『さあ、愛のあるお別れを見せてくれよ』

カリムの声が、背中にまとわりつくように響く。エルの胸に頬を寄せ、誰にも聞こえないように囁いた。

「ごめん、エル……少しだけ……痛いかも」

左手に隠した注射器を、自分の腕に突き立てる。皮膚を裂く鈍い感覚と同時に、自分の血の熱が注射器を満たしていく。

金属の冷たい筒の中に、自分の赤い命が溜まっていく様子に、背筋がゾクリとした。

その真紅の液体が溢れる瞬間――。

『何をしている』

触手が唐突に跳ね、私をエルから引き剥がした。

「ッあああッ!!!」

全身を締め上げる触手。肋骨がミシミシときしむ音が内側から聞こえ、背骨が悲鳴を上げる。足をばたつかせてもがくたびに、締め付けはさらに強まり、肺から空気が抜けていく。

『これは何だ?見せてくれるかな』

左腕に握られた注射器に、複数の触手が群がった。手をこじ開けようと、鋭い棘が皮膚に食い込み、爪のような先端が突き刺す。

他の触手は容赦なく身体を殴打し、切り刻んだ。腹部に鈍い衝撃、肩に焼けるような裂傷、頬に何かが裂ける感触――痛みが連鎖し、視界が赤く滲む。声を噛み殺し、必死に抵抗した。

それでも――カリムは止めない。

甲高い回転音が、鼓膜を引き裂く。触手の一本が、チェーンソーのように変形し、狂ったように回転する刃をむき出しに私の首へと迫った。

「切っても……無駄だ。私は……離さねえ……死んでもな!」

一瞬、金切り音とチェーンソーは止まった。

だが、息を吐いた瞬間。

『ならば、腕ごと』

左肘から先が、肉ごと弾け飛んだ。

「――――――ッッ!!!」

刃が骨を砕く感触が頭蓋にまで響き、反射で口から絶叫が迸った。断面から噴き出した血が自分の顔に降りかかり、熱を帯びた飛沫が頬を焼く。身体がのけぞり、背筋が硬直する。

しかし、胴に巻きついた触手はさらに強く締め上げて肋骨を圧迫し続けた。視界が黒くなり、喉を裂くほど叫んだ声が、自分の耳では遠くのノイズのように聞こえた。絶叫は祈りとなり、慟哭となり、やがてただの掠れた呻きに変わった。握っていたはずの注射器の感覚も、もうない。

『……君の覚悟、ようやく理解できたよ」

切断された左腕が触手に掲げられ、目の前に突き付けられた。赤黒く光り、だらりと力なく垂れ下がるそれ――まだ自分の指先が震えているように“見えた”。

その拳には、血で満たされた注射器が握られていた。霞む視界で、自分の“無いはずの腕”を動かそうとした。

動かそうとすると脳に釘を打たれたような激痛が走り、また悲鳴が漏れた。

『だが――手遅れだったな』

触手は切り取った腕をゴミのように投げ捨てた。ポケットから抜き取られたレベッカの手紙が、目の前で翻る。

『強化細胞をかけ合わせれば中和する。なるほどね。私が溶けた理由がようやく分かったよ』

焼け爛れた触手の切断面が、耳元で生臭く鳴り、熱を帯びた粘液が頬に滴る。

『あの金庫は私でも開けられなかったのだよ。感謝するよ……ミア』

カリムの野太い声が、傷口に直接流れ込むように響いた。

「……エル…エル…ごめん…」

懺悔の言葉が喉から漏れた。

『君が持っているのは注射器だろ?自分の血が入った。“彼女”に打ち込むつもりだったんだろ?そうだ。彼女の強化細胞が私を構成しているのだからね。危ないところだったよ』

首筋に停止したチェーンソーの冷たい刃が押し当てられ、切り取り線を描くように皮膚をなぞった。急に回転音が鳴り、空気が震えた。

「ごめん」

エルはカリムに嬲られ続け、意識の奥で泣いている。それが悔しくてたまらなかった。だが、あと数秒で死ぬことだけは決まっていた。どうしようもできない、謝ることだけしかできない自分が憎かった。

――頬を、一筋の涙が伝った。

瞬間、闇が訪れた。電気だ。次に全てが止まった。カリムも。チェーンソーの回転音がぷつりと切れ、耳鳴りだけが残る。

直後、チェーンソーが溶けて床に金属が落ちる硬質な音だけが乾いた残響を残した。

触手が緩み、身体が地面に叩きつけられる。頬に伝わる床の感触は、金属でも石でもなく――ぬるりとした肉だった。

鼻腔を突く生臭さに、胃がひっくり返りそうになる。血と肉と絶望に塗れながらも――まだ、生きていた。

「……やったんだな」

かすれた声が自分のものとは思えなかった。

シルヴィアとイリーナが、プラントの動力を止めてくれた。それだけが、今の私を繋ぎ止めている唯一の希望だった。

ふらつきながら立ち上がる。左肩から滴る血が床に落ちるたび、足元の肉がぞわりと動いて吸い込む。

同時に、胃の奥から何かがせり上がり、大量の血と胃液を吐いた。喉を焼く酸味と鉄の味が口内に広がり、涙と唾液が混ざって顎を伝う。

口元を手で拭い、エルのもとへ足を引きずる。目は霞んで何も見えない。どうせ、ここは暗闇だ。

だが場所は分かった。エルの吐息――その微かな温もりを追うしかなかった。

痛みの中を歩くのは地獄。視界は赤黒い斑点に覆われ、呼吸のたびに胸郭が悲鳴を上げる。

それでも、エルの元へ。やがて壁に手が当たる。そこに――エルがいる。

指先が、冷たくも柔らかな肌に触れた。

その時、背後で何かが“ぐちゃぐちゃ”と蠢く音がした。生理的嫌悪を煽るその音が、近づいてくる。

突如、それは叫び声を上げた。空気が震え、鼓膜を破るような咆哮が、切断された左腕の断面から頭蓋の奥にまで突き刺さる。

思わず片耳を押さえたとき――壁からずるりと壁から何かが滑り落ちた。

「……え?」

無力に崩れ落ちたそれを抱き寄せる。エルだ。その髪も、顔も間違いない。

エルの身体を、慌てて抱き止める。温度が低い――でもまだ柔らかい。だがその胸は上下していなかった。

「……嘘だろ?……おい、エル!」

胸に耳を押し当てる。何も聞こえない。首筋に指を当てる――脈も、ない。

必死で心臓マッサージを繰り返した。切断された左腕がない分、バランスを崩し、何度も自分ごと倒れ込みそうになる。

それでも、止めなかった。エルが、どんどん私の血で汚れていく。

「早く起きろ!おい!エル!」

人工呼吸をする。口の中は冷たく、血と粘液の味しかしなかった。痛む肺を無理やり膨らませ、空気を送り込む。

だが――胸は動いても、自分で戻ることはない。

「おい!ふざけんな!エル!起きろ!」

エルの頬を叩く。手には、氷のように冷えた肌の感触しかなかった。

「やめろ!嘘だ!エル、早く起きろ!」

身体を揺さぶる。だが瞼は閉じられたまま、微動だにしない。首が、ぐにゃりと傾く。頭が真っ白になった。

エルを抱き締める。力を込め、髪の匂いを吸い込み、その現実を否定するかのように首筋に噛み付いた。

歯形が残るほど強く噛んだ。血の味がしたが、起きるんじゃないかと思った。

だが――エルは沈黙している。

「……お願いだ……起きてくれよ、なあ。エルッ!!!」

声が枯れる。いくら泣いても、その目は開かない。血と涙でぐちゃぐちゃになったエルの顔が、自分の胸元に沈む。

「エルッ!!!」

叫びは反響し、返事はない。腕はだらりと垂れ下がり、冷たく細い。顔も足も、力なく崩れ落ちていく。

どれだけ時間が経ったかわからない。ただ後悔と懺悔が、焼けつくように胸を満たしていった。

視界が真っ暗になる。

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