7-6

その穴は、終わりがあるのかすら分からない。赤黒い管のような道が延々と続き、肉の壁が脈打つたびに低い心音が頭蓋に響く。

それが自分の心音なのか、この化け物の心音なのか、もう区別がつかなかった。 腕は既に感覚がなく、銃を構えているのか、銃を持っているのかさえ、曖昧だ。

熱気がのしかかる。息苦しい。汗と汗ではない液体が頬を伝う。――息が、重い。このまま進めば、心まで融けてしまいそうだった。

だが、奥に感じる確かな気配――エルが、いる。

今すぐ走り出したい衝動を、ギリギリの理性で抑える。慎重に、確実に、近づくんだ。

やがて――光。闇に慣れた目が痛むほどの光が差していた。幻かと思ったが、確かにそこにある。

「…エル…」

光の中心に向かう。目を細めない、しっかりと見るために。

穴を出た。まだ、ぼんやりとしか見えていないが、確かにそれは見えた。

磔にされたエルの姿。胸から上だけが肉の壁から突き出て、他は壁に埋まっている。目は閉じられ、苦悶に歪んだ顔。

それでも胸はわずかに上下し――生きている。

「エルッ!」

叫んだが、答えはない。地面を蹴って駆け出した瞬間、エルの前に触手が生えた。

瞬間、金属を弾くような音。触手が口を開き、何かを撃ち出してきた。直感で横に跳ぶ。耳の横を熱が走る。頬に痛みと生暖かい血が流れた。掠めた弾は――歯のようなもの。

「ッ……!」

頬から流れる血。歯が飛んできたことに気づき、咄嗟に撃ち返す。

肉塊が、弾けた。繊維質の肉と透明な粘液の混ざった肉体が、泥のように崩れ落ちる。

その時――声が響いた。壁から。床から。空間そのものから。

『邪魔しないでくれると有り難いね。今はとても大事な“時”だから。……でも、嬉しいよ。君が立ち会ってくれるなんてね』

――カリム。

声はどこにも、そして全てに存在していた。銃を構え、周囲を警戒する。だが影はない。それなのに――全身の毛穴が総立ちになった。

『“彼女”は最後まで私に試練を与えてくれた。だけど、それも……愛によって、もうじき乗り越えられる』

笑い声。空気が震え、壁も床もヒクヒクと痙攣する。この胎内そのものが笑っている。私と、エルを、あざ笑いながら。

「……勝手なこと言ってんじゃねえよ」

歯を噛み締め、喉を震わせた。

「出てこい。今すぐぶっ殺してやるよ、タコ野郎め」

『……ここは神聖な場所だ、そんな汚い言葉を使ってほしくないね』

その声をかき消すように、壁へ引き金を引いた。乾いた連射音と共に、赤黒い肉が弾け飛び、体液がシャワーのように降り注ぐ。

鉄の匂いと甘ったるい生臭さが喉を焼き、吐き気を誘う。

だが沈黙。その隙を突き、エルへ駆け寄った。頬に触れると――冷たい。それでも確かに微かな温もりがあった。

「……帰るぞ、エル。一緒にな」

脇に腕を回し、全身の筋肉を総動員して引き剥がす。

――びくともしない。背筋が軋み、手のひらが汗で滑る。壁に足を掛け、全力で引いた、その瞬間。

臓器がズレる衝撃。床に何回転も転がり、壁に叩きつけられた。横から飛び出した触手が、私を鞭のように弾き飛ばした。

背中には骨が折れそうな衝撃が走る。肺から酸素が一気に押し出され、喉が鳴るだけで声が出ない。

痛みを嚙み殺し、立つ。血の混じった唾を吐き捨て、目を据えた。

『君も、“彼女”と同じ遺伝子を持っているとは……到底思えないね。“彼女”は君を大事にしていたけれど、君の何が大事なのか……度し難いよ』

新たな影が動いた。回転する歯を備えた触手。電気ノコギリのようにだ。左右からも、後方からも、複数の影がにじみ出る。

――包囲されたが不思議と身体は震えない。

「……邪魔だ。さっさと死ね」

迫りくる肉塊たちに銃を向け、引き金を引いた。銃声と共に火花が散り、一体、また一体と肉塊が弾ける――はずだった。

だが――違う。 三体目を撃ったとき、はっきりと“異常”に気づいた。

効いてない。撃ち抜いた穴が、瞬く間に塞がっていく。再生している。いや、さっきより厚く、硬くなっている。

「……なんだよ……こいつら……」

距離を取りながら、無駄だと分かっていながら連射。弾倉の残弾が減っていくたびに、心臓の鼓動が耳鳴りのように聞こえる。

「クソッ……!」

見渡すも、ここには武器はない。あるのは肉だけだ。

引き金を絞る。空打ち。弾切れだ。

腰の予備弾倉に手を伸ばす――が、背後から伸びた触手が脚を薙ぎ払う。頭から倒れこみ、割れるような痛みが骨まで突き刺さる。

「ッぐうっ!」

息が止まるほどの衝撃。頭の中で白い火花が散った。 立ち上がろうとした瞬間、二体の肉塊が巨腕を振り下ろす。

――人の胴より太い腕。

両腕で咄嗟に受け止める。 骨と関節が軋む音がはっきりと聞こえた。歯を食いしばり、膝を押し返すように力を込め――跳ぶ。

だが、別の丸太のような触手が腹部へ叩き込まれた。

「がっ……!っっ……」

全身が浮き、エルのいる方向とは逆の壁へ叩きつけられた。銃が吹き飛び、どこかで肉に呑まれる音がした。

視界がぐるりと反転する。 呼吸のたびに血の味が広がり、胸が焼ける。

それでも――立つ。

膝が笑い、肺がひゅうひゅう鳴っても、足を止める気はなかった。ここで止まれば終わる。エルも、自分も。

「……クソが……!」

血走った目で睨み、腰のナイフを引き抜いた。

右腕の腱が軋む。呼吸は荒く、肺の奥が焼ける。 床を蹴る。ブーツの底が粘液を弾き飛ばし、ぬちゃりと音を立てた。

跳躍し、肉塊の胴体へと飛びかかる――刃を、抉るように突き刺した。 ずるりと赤黒い繊維が裂け、熱を帯びた粘液が顔や胸に降りかかる。

鼻を突く甘ったるい腐臭。胃の奥がひっくり返りそうになる。

だが触手は止まらない。首に絡みつき、締め上げる。軋む気管。呼吸が止まる。別の一本がナイフを奪おうと腕に巻き付く。

「――ナメんじゃねぇよ、クソナメクジがぁ!」

首を締め上げられながらも、腰をひねり、体を転がす。背後に回り込み、刃を――叩き込む。湿った破裂音とともに、触手の一体が崩れ落ちた。

そのまま、もう一体へ飛びついた。

「さっきのお返しだ。ぶっ殺してやるよ……」

連続で何度も突き刺す。刃が骨のような硬質に当たり、手首が痺れる。何度も、何度も。

触手の柔らかな部分を、動かなくなるまで刺し続けた。やがて、触手は力を失い、どろりと溶けて床に沈んでいった。

呼吸は荒く、体は震え、手は痙攣。足元がふらつく。

視界が滲む中――肉が、また蠢いた。新しい影が姿を現す。

「……かかって来いよ……いくらでも相手してやる……」

爆発した肺。歯を食いしばり、ナイフを構え直す――その瞬間。

「……ミ……ア……」

息が止まった。かすかに聞こえた、その声。エルだ。

振り返る。壁に埋め込まれた彼女の目が、わずかに震えていた。閉じられていた唇が、かすかに開いた。

「エルッ!!私だ、聞こえるか!?エルッ!」

踏み出す。どろりとした触手を踏み越え、必死に叫ぶ。

「今、助ける。エル!」

そのとき――。

「……に……げて……」

細く、小さな声が、確かに耳に届いた。

「え……?」

耳をつんざく衝撃音と共に、視界が真っ赤に弾けた。骨ごと砕かれるような衝撃が背中を貫き、体は無様に宙へ投げ出される。

ボールのように壁に叩きつけられた瞬間、肺が押し潰され、喉の奥で空気が潰れる音がした。右腕に鋭い激痛。皮膚の下で骨がずれる感覚が生々しく伝わり、視界の端で腕が不自然にねじれていた。

「ぐっ……あああッ!」

悲鳴が勝手にこぼれ、呼吸が詰まり、視界の端が黒く染まる。

片手で床を掴み、這い上がろうとした瞬間――さらに太い触手が脇腹を蹴り抜いた。

「がっ……ッッ……!」

肋骨がひしゃげ、内臓がぐしゃりと押し潰されたような感覚。胃がせり上がり、口の中に酸っぱい嘔吐感と血の鉄臭さが混じった。

目が勝手に潤み、震える指先は力が入らない。身体は空き缶のように転がり、止まったときにはエルから少し離れた床にうずくまっていた。

両腕と脚は打ち身と裂傷まみれで、ジャケットには血と粘液に貼りつき、腿には紫色の痣が浮かぶ。折れた右腕は変な角度で床を擦り、指先は痙攣し続けていた。

ナイフは、もうない。

「はっ……はあ……クソ……」

肺が焼け付くように痛く、吸うたびに胸の奥が裂けそうだ。咳き込むと鮮血が込み上げ、視界に黒い点が散って、吐き気と目眩で世界が遠ざかる。震える唇から血が垂れ、顎を伝って床に落ちた。

『君も諦めが悪い。だが、そんな努力も虚しく……“彼女”はもうじき私と一体になる』

カリムの声。耳障りな、甘ったるい声が鼓膜を揺らす。

だが同時に――ポケットが“音を立てた”。ジャケットの中で、何かがずれた。

最初は弾倉かと思って手を伸ばした。だが違う。ポケットからそれを取り出す。

――小さな箱。中には、注射器。

「……あったな、こんなの……」

シルヴィアが託してくれたもの。あの夜、母の言葉と共に渡されたお守り。笑いが出た。乾いた、血の味の混じる笑いだった。

『もう武器すらないのか?では、終わりだな。ミア』

カリムの声が、勝ち誇ったように囁いた。身体はズタボロ。右腕は折れ、全身に痣と裂傷。指の感覚すら鈍い。

まともに走ることもできない。

残された“武器”は――注射器一本。それを見つめながら、ふと――床を見た。

さっき血を吐いた場所だけ、肉が“溶けて”いることに気づいた。

違和感。――いや、感触。血が、肉を退かせていた……?

はっとして目を見開いた。血だ。頭の奥で、記憶が閃光のように走った。

レベッカの遺言。“血をかけ合わせなさい”。

「……賭けてみるか」

荒れた息の中で、小さく、静かに。けれど確かな“決意”を込めて。

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