7-5
昇降機が肉の膜に接触すると、ぬるりとした衝撃とともに停止した。機械が“生き物の上に乗った”――そんな異様な感触。
足先には肉塊がある。
「ユピテルはここで待機。昇降機を死守しろ……シルヴィアとミアは私と一緒に来い」
イリーナの短い命令。兵士たちは緊張に背筋を伸ばすが、その視線は皆、下でうねる“肉”に吸い寄せられていた。
私は一歩、床から踏み出す。足首まで沈む、ぬめりと熱。足を上げるたびにぐちゅりと肉が口を開き、吸い付いて離れない。
それでも歩を進めるごとに、膜は“拒絶する”どころか私の足跡に合わせて沈み込み、道を開くように動いた。
「……ミアの近くは沈む、わね」
シルヴィアがぼそりと呟く。その声すら、肉に吸い込まれて響かない。 道が開く。私を“受け入れている”。――エルと同じ血を持つ私だから。
名を呟いた瞬間、足元の肉がぴくりと痙攣した。どくん、どくん、と鼓動が脚の骨まで伝わる。
肌を伝うのは、生暖かい粘液と熱を持った肉。脚を少し浮かすと、ぐちゅりと肉が口を開き、また絡みつく。その不快な感触すら、いまは“エルの気配”と感じ取れる。やがて、胸まで肉に包まれた。
息はできたが、熱さと腐臭と圧迫感が五感を支配する。
引き返すことは、もうできない。鼻まで覆われるその瞬間、イリーナの視線が私に注がれていた。だがイリーナは、何の迷いもなく目を閉じて沈んでいった。
全身が肉に沈んだ。熱い。暗い。動けない。まるで胎内に逆流する胎児のように、優しくも強引に包まれる。
布団蒸しの中で押し潰されるような圧迫感に、肺がひくついた。
ここは――カリムの体内だ。肉の鼓動が身体を震わす。
その“母胎”となっているのが、エル。肉の鼓動が全身を震わせ、エルの気配が胸を打つ。 だから、この肉は私を拒まなかった。エルと近い血の私なら。
そしてエルが、まだ心を失っていない証拠だった。心音が徐々に大きくなる。
エル。
そう感じた瞬間――足元が抜けた。
「――ッ!」
重力が反転する。落ちる。数メートルの落下。身構える間もなく、ぐしゃりと何か柔らかいものに落ちた。
「……ッ何なんだ……」
そのとき、右手で掴んでいた柔らかな物体が動いて、腕を捕まれる。粘液を拭って目を開けると、程よく筋肉をまとうイリーナの腕が私の腕を掴む。
そして私が掴んでいたのは周りの肉ではなく、イリーナ。――イリーナの身体の上に自分が倒れ込んでいた。
赤い瞳が切り裂くように私を見据えた。
「……どけ」
イリーナの声は苛立ち半分、安堵半分で私を押しのけた。
ここは、巨大な肉の洞――まるで巨大な胃袋の中。壁という壁が蠢き、天井からは臓器のような器官が垂れ下がっている。
湿った空気が肺を焼き、全身の産毛が逆立つ。 動力室らしき装置が、腐った臓腑に飲み込まれながら稼働していた。
「……着いたのね」
シルヴィアが濡れた手袋を外し、べちゃりと床に投げ捨てる。
「……ああ。あの壁の奥だろうな」
私は銃を下ろし、激しく胎動する肉の壁を睨みつけた。カリムの心臓部――そこにエルがいる。
イリーナは肉塊に埋もれた端末を力づくで引き剥がし、手早く操作した。
「まだ電力は通っている。こいつは海底火山を利用して生きているようだ」
モニターに浮かぶエネルギー量の数字。その右下には、発電所の状態が表示されていた。
「……動力を切ればカリムは死ぬのか?」
私はイリーナの隣に立ち、液晶を覗き込む。
「主電源と補助電源も壊しても完全にはすぐには死なんだろうな。だが生命線は絶てる。……昇降機も動かなくなるが」
イリーナは眉間に深い皺を刻む。
「退路を断つってことか」
息を吐いた。引く余地なんて、もうない。
「どのみち……行くわ。エルを取り戻しに」
シルヴィアが肩越しに低く言った。その声は揺るがず、強かった。イリーナがため息をひとつ。
「勝手にしろ。私は奴の生命線を絶ってこのプラントごと押収する」
端末を操作し、地下の発電中枢の映像を映し出す。その道の先には、先ほどの叫ぶ怪物と虫の大群が待っている。イリーナの表情が一瞬だけ険しくなった。
「待って」
シルヴィアが二人の間に割って入る。
「単独で動くのは危険よ。一緒に行った方がいいわ」
だが、イリーナも私も静かに首を振った。 もう既に道は決まっていた。私はエルを取り戻す。イリーナはプラントを手に入れる。
そしてシルヴィアは――どちらにも付ける。
「……シルヴィアはイリーナと一緒に行ってくれ」
焦りを隠せないシルヴィアの瞳を見据えながら言った。
「私は、こっちでエルを連れ帰る。だから……なるべく早くカリムを止めてくれ。そっちは化物だらけだしな」
シルヴィアの視線が揺れる。
「ミア……あなた、本当に大丈夫なの?」
その目が痛い。大丈夫じゃない。喉は乾き、手は震えている。でも、ここで引く理由なんてない。
「平気。死ぬわけにはいかない。エルを助けるまでは」
無理やり笑って、シルヴィアの肩を拳で軽く叩く。粘液で重く濡れたジャケットが鈍く音を立てた。
「……時間が惜しい。行くぞ」
イリーナが背を向け、発電中枢へ向けて歩き出す。
シルヴィアはその背を見送り、迷った末――私の前に一歩近づき、両手で私の頬を包んだ。
粘液の湿った匂いと、シルヴィア自身の甘い香りが混ざる。
そして――唇が額に触れた。一瞬で全身の時間が止まる。熱い。顔から耳、首まで一気に紅潮していく。
「……お願い、絶対に帰ってきて」
囁きは震えていて、けれど笑っていた。その笑みは戦場には似つかわしくないほど優しかった。私は硬くうなずき、照れ隠しに冗談を言った。
「命令だろ。従うよ、シルヴィア」
シルヴィアは微笑んでイリーナの後を追う。彼女の背中が遠ざかるが、額に残った熱は消えない。
私は深く息を吸い込み、肉の壁の前に立った。触れると、扉のように肉が蠢き、裂けるように道を開いた。
銃を確認する――軽機関銃は粘液で内部がやられていた。引き金を引くも、無情な沈黙。ため息とともに捨て、腰のホルスターから拳銃を抜く。
武器は拳銃と腰のナイフ。
「ないよりマシだな……」
そして肉の穴の中へ歩を踏み出した。
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