7-4

しばらく下ると、ゾラとダリアたちが残る昇降機も視界から消え、虫や卵もようやくいなくなった。

だが安堵する間もなく、昇降機の周りは肉塊に覆われた。空気は重く、まとわりつく湿気を帯び、肌に生ぬるい舌が這うような感覚を残していく。

通信はいつまで経っても繋がらない。

「ダリア達……大丈夫か」

私は手すりに寄りかかり、熱くなった銃身を下げた。

「あの人なら大丈夫よ。ゾラも付いてるし。…下に着いたら待つのかしら指揮官さん」

シルヴィアは何事もないように黒いロングコートを脱ぎ、手すりに掛けた。下のシャツが汗で肌に張り付き、白い布越しに肩の線や肌の輪郭がうっすら透けている。

「待つ必要はない。ゾラがいる、勝手に追いつく。それにそんな時間はない」

イリーナも重苦しい軍用コートを脱ぎ、淡々と兵士に預け、シャツの腕を捲る。腕を動かすたびに筋肉が滑り、汗が艶めいて光る。

私は……もう暑さに我慢できなかった。ずっと着ていた汚れたマウンテンジャケットを乱暴に脱ぎ、足元に投げ捨てる。

その下にあったのは、水を浴びたかのように濡れたタンクトップ。 胸元から腹部まで生地が肌にぴったり張り付き、肌がくっきり透けているのが分かるほど濡れている。

生ぬるい風が吹くたびに、布と肌がぴちゃりと音を立てて剥がれる感触がして、ゾクリと背筋が震えた。

胸元から脇腹に流れ落ちる汗が冷えて、一瞬だけ鳥肌が立つ。 ホットパンツは完全に汗で色が濃くなり、太腿にぴったり貼り付き、布と肌の間で汗が溜まる感覚すらある。

足元もひどい。

ブーツの中は汗で満たされて、靴下が肌に貼り付く感触が気持ち悪い。動くたびに足裏がぬちゃりと音を立て、息を吐くたびに足元から立ち上る不快感で思わず顔をしかめる。 脱ぎたい……でも、脱げない、命取りになると分かっている。

額からとめどなく汗が垂れ、それを手の甲で拭った。

「エルはもう近い」

息が掠れ、震える。汗が唇に落ち、しょっぱい味が広がった。

「あなたが言うなら間違いないわ。……参ったわね、この暑さもカリムのせいかしら」

シルヴィアが軽く笑い、額の汗を指で拭う。

この熱さは外だけじゃない。体の内側からも火が点いたようで、体温と心拍が妙に上がっている。

風を求め、手すりから見下ろすと、汗の粒が奈落へと落ちた。闇の奥は相変わらず何も見えない。だが、この穴の底にエルがいる――それだけは確信していた。

昇降機が沈黙を破り止まったのは、実験室へ通じる直前の研究区画の階。辺りはしんと静まり返り、深淵のような気配がまとわりつく。

「……また止まったか」

呟くと、今度は無機質なアナウンスが頭上から響いた。

『実験区画への通行には、認証レベル3のカードが必要です』

音声が消え、また沈黙。呼吸の音がやけに大きい。

「……仕方ない」

イリーナが舌打ちし、全員に向かって手を振る。

「研究所内を二手に分かれて捜索する。第一研究室は私たち。二人は第二だ」

濡れたジャケットを羽織り、シルヴィアと昇降機を出た。分かれ道の前で視線が交わる。無言のうなずき。お互い銃を構え、腐臭の漂う通路に足を踏み入れる。

研究室の扉は、肉のような膜で半ば覆われていた。触れた瞬間、ぬるりとした感触が掌を這い、鳥肌が走る。

「……慣れねえな」

扉が開くと同時に、血肉のカーテンのようなものが視界を埋めた。 天井からぶら下がる管――腸のようにねじれ、粘液を垂らす。床は赤黒い粘膜で覆われ、壁面には融合した肉塊の中に人の顔が埋め込まれている。

その口元が微かに動いた。笑っている。

「……最悪のディスプレイね」

シルヴィアが吐き捨てた。奥で、何かが蠢いた。反射的に銃口を向ける。

「……ッ!」

人の形をしている――だが“人”ではなかった。 骨が膨れ上がり、皮膚が破れ、赤黒い肉が外に溢れていた。顔は人間に近い。いや、近すぎる――。

ゆっくりと近づくその物体に心臓が凍る。

引き金を引く。銃声が反響し、肉塊は断末魔のような叫び声を上げた。

「――ああアあァあァアアァア!!!」

その声が頭蓋を割る。耳を押さえ、膝をついた。頭がかき乱され、視界がぐにゃりと歪む。 うずくまった。音が、脳をかき乱す。耳鳴りの中で、背後でが蠢く気配を感じた。

――振り返ると。

「ミア……」

シルヴィアが、そこにいた。 震える手で銃を構える。――そこにいたのは、シルヴィアだったはず。だが、その身体は……溶けた蝋人形のように崩れ、肉に塗れ、目も口も人の形を保っていなかった。

ただ声だけは――まぎれもなく、シルヴィアの声。

「ミア……こっちよ、ミア……どうしたの?何かやられたの」

指が震え、歯がガチガチ鳴る。引き金にかけた指が硬直した。

撃てない。撃てるわけがない。

『ミア!!やめて!!』

頭の中に、エルの声が響いた。その瞬間、絶叫とともに頭を抱え込み、膝をついた。

「やめろ……やめてくれ!!」

歯を食いしばり、頬を拳で叩きつける。視界が白くはじけ、口の中に血の味が広がる。

後ろへ倒れる。何もかもが遠ざかっていく。……だが、すぐに誰かが肩を強く揺さぶった。

「ミア!!」

揺さぶられた。視界の揺らぎが消え、シルヴィアの顔が飛び込んでくる。

肉塊ではない。――いつもの、冷たくて優しい灰色の瞳。

「ミア!聞こえる!?返事して!」

「……ああ、聞こえる」

かすれた声を絞り出すと、シルヴィアが抱き締めてきた。彼女の体温が震える身体に染みていく。

「……ごめん、私……おかしくなってた、あの叫びを聞いて。……だけど、ギリギリで止めてくれた」

あれは幻覚だ。シルヴィアは決して、あんな姿じゃなかった。深く息を吸い込み、崩れた呼吸を整える。

遠くで誰かの悲鳴がこだまする。向こうも――幻覚を見せられている。

「イリーナの方も同じみたいね」

シルヴィアが耳を澄ませながら呟く。

通路の先には、まだ幾体もの“それ”が蠢いている。だがもう、恐怖で止まるわけにはいかなかった。

「休んじゃいられない」

私はぐらつく足で立ち上がり、銃を握ってそれを全て撃った。濡れた掌が銃のグリップを滑り、冷たい金属の感触が神経に突き刺さった。

歩を進めた先。

研究室の奥――かつての面影もない。その場所は、完全に“肉”に飲まれていた。床のタイルは剥がれ落ち、代わりに現れたのは血走った粘膜と腸のようなヒダ。空気は濃く、ねっとりと肌に貼りつき、喉の奥でじゅるりと音を立てる。

「……あそこ」

シルヴィアが目を細めて指差した先に、ガラスケースがあった。中には金属の塗装が剥げた古い金庫がひとつ、この場には相応しくないほど古い。

ガラスを割る音が響くと、血管のような配線がぴくりと蠢いた。私は金庫を抱きかかえる。重い。だがどこかで、これを。

「…見たことがある」

小さなステッカーが貼られていた。黄ばんだアニメキャラ。エルと二人で笑いながら本屋でもらった――そうだ、家のあちこちに貼って、母に叱られた。

でも……一つだけ、ばれなかった。確か、あのとき……視界がぶれた。喉が震え、記憶が肌に突き刺さる。

「……これ……レベッカの……金庫だ」

シルヴィアが駆け寄り、息を呑む。ダイヤルの埃を払った。16桁のダイヤル。

「開けられる?」

「……わからない。でも……やってみる」

指は迷わなかった。

エルと自分の誕生日。それを交互に繋ぐ数字。昔、母がよく使っていた。誰にも気づかれず、エルと二人で覚えていた数字――。

カチリ。音がした瞬間、周囲の肉壁がぴくりと蠢く気がした。

金庫の蓋がゆっくりと開く。中には、紙片――血のような染みと埃にまみれたそれを、私は慎重に手に取る。

「カリムも開けられなかったみたいね」

シルヴィアが私の肩を掴み、覗き込んできた。彼女の手もまた、汗と粘液にまみれた私の背にぴたりと張りつく。

手紙には、母の文字でタイトルがあった。

『強化細胞の懸念点』

その最初の一行が、私の心を冷やす。

“強化細胞は確認できる感染症全てにに耐性を持つが、他の強化細胞と融合したとき、その力は中和され、通常細胞に変異する。”

「……これって」

手が震える。――強化細胞が壊れればどうなる?カリムを殺すことができるのか?だがどうやって融合させる。

「レベッカらしいわね。肝心の方法が書いてないなんて、でも……」

シルヴィアが口元を緩める。 昨夜、シルヴィアが聞かせた昔話。

“血をかけ合わせなさい”――あのときの、静かな声が頭の中でこだました。

そのとき、廊下の奥から兵士が駆け込んで叫んだ。

「カードキーがあった。昇降機へ戻れ!」

シルヴィアと目が合う。言葉は交わさない。だが確かに、意思は通じていた。

金庫の中の紙束を大切にポケットへしまい込む。あの腐臭まみれの空間にあって、それだけは確かに――母のぬくもりだった。

振り返ると血と肉の巣窟。だが、そこにこそ答えがあった。アクセスキーに感謝だ。

「……行こう。エルが待ってる」

深く息を吸い、私は再び闇の中へ足を踏み出した。昇降機にたどり着くや否や、シルヴィアは天井を見上げて眉をひそめた。

「……遅いわね」

ダリアとゾラたちの昇降機はまだ来ていない。

沈黙の中、金属フレームだけが軋むたびに、異様に湿った音が重なって聞こえる気がした。シルヴィアが端末でダリアに繋ごうとするが、画面は無情に暗いままだ。

「何か見つけたか?」

薄汚れたコートの裾を払ったイリーナの声は鋭く、わずかに苛立ちを帯びていた。私は首を振る。だがその手は――無意識にポケットの奥へ潜り込み、母の手紙を握りしめていた。

――“強化細胞同士をかけ合わせると、力は中和される”。

本当に正しいのか?カリムを殺せるのか?それでエルを救えるのか?

指先が震える。手紙の下に触れるもうひとつの感触。

小さな注射器。昨夜、シルヴィアから貰ったお守り。

「行け」

イリーナが短く命じ、カードキーを操作盤に通す。鈍い機械音とともに昇降機が沈み始める。下降するごとに温度が上がり、肌をじっとりとした汗が覆った。全員が乗り出して下を覗き込む――だが、見慣れた闇ではない。

「何よ……あれ」

シルヴィアの驚いた声。

それは穴そのものを覆い塞ぐ、巨大な肉の膜だった。赤黒く脈動し、まるで胎児を抱え込む胎盤のよう。その奥から放たれる熱気は、肺を直接焼くように熱い。

「……あれが核だ。実験室は完全に飲み込まれたようだ」

イリーナの言葉には恐怖はなかった。むしろ確信に似た冷たさがあった。

唇を噛む。――エルは、あの奥にいる。

「……もう会えるな」

願いというよりも、祈りに近い呟きが漏れた。

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