7-3

トンネルを抜けた瞬間、空気が変わった。今までとは違って風が流れている。

目の前に――大穴と、その中央に繋がる橋。地面が途切れ、視界の中心に黒い円形の穴がぽっかりと口を開けている。ビルを丸ごと呑み込めそうな巨大な縦穴。

下から吹き上げてくる風は、生き物の吐息のように湿り気を帯び、生暖かく、腐敗した血と金属の匂いを運んできた。

「……壮観ね。地獄の穴って感じね」

シルヴィアは縁に立ち、覗き込んでわずかに笑った。その笑みは冷たく、どこかで諦観めいた色を帯びている。

穴の底では、何かが“呼吸”していた。風のうねりの奥から、低い唸り声が混じり、耳の奥を震わせる。

無意識に唾を飲み込む。喉が焼けるように乾いていた。 橋に足をかけると、鉄の骨組みの軋みが靴底に伝わった。ここは妙に何もない。触手も肉壁も腸のような管も絡んでいない。

――それが逆に、不安を煽る。

イリーナが懐から銅貨を取り出し、指先で弾いた。金属の光が、暗闇に吸い込まれていく。……音が返ってこない。

700メートル下まで落ちているというのは本当らしい。この穴は、音すら呑み込む。

橋の先には二基の昇降機が、吹きさらしのまま並んでいた。壁も防護柵もない、剥き出しの鉄骨に支えられたプラットフォーム。

イリーナは冷たい声で告げる。

「分かれる。私とミアは右。ゾラ、シルヴィア、ダリアは左。ユピテルは二手に分かれて乗れ」

兵たちは淡々と命令に従って乗り込んでいく。が、そのとき――肩に柔らかな圧がかかった。そっと置かれた掌。振り返ると、シルヴィアが静かに見つめていた。紅の瞳が、まるで祈りのように揺れていた。

「……急げ」

イリーナが鋭く声を飛ばして昇降機に向かう。

「いま、行く」

一歩踏み出したところで、背後から呼ばれた。

「ミア」

振り返る。シルヴィアは短く告げた。

「生きて帰りなさい。命令よ」

その声は刃物のように鋭く、同時に温かかった。私は頷いた。

「……ああ、エルを連れてな」

昇降台に足をかけた瞬間、背筋にぞわりと悪寒が走った。

この下に“いる”。エルが。間違いない。だが、足が震える。胃の奥が焼けつく。“本能”が拒絶していた。

“生きて戻れない場所だ”と、本能が叫んでいた。 ――それでも、行く。手を伸ばさないことの方が、死よりも怖い。

向かい側の昇降機。 ゾラが舌打ちしながら銃のマガジンを確認する。ダリアは顔色を失い、唇を噛んで銃を握りしめていた。

シルヴィアはただ、私を見ていた。言葉にならない何かを伝えるように。

イリーナが手を上げる。

重い金属音とともに、二つの昇降機が同時に奈落へと沈んでいく。

闇。湿気。風が、肉の匂いを運び、頬を舐める。昇降機には壁も天井もない。視界いっぱいに、無数の管と筋肉質なコンクリートの壁が迫ってくる錯覚に襲われる。

誰もが無言。私もまた黙り、銃に手を添える。汗でグリップが滑る。呼吸が浅くなり、心臓の鼓動が痛いほど胸を打つ。

突然、昇降機が揺れて停まる。全員が銃を構える。

「……止まった?」

警告灯は点かない。だが、どこかで“何かが擦れる”ような音がしていた。

対面の昇降機も同時に停止していた。ゾラが文句を垂れている声だけが響く。

床板の下を覗くと、ガイドロールの隙間に緑色の濡れた塊が詰まっていた。腐った海藻と卵の膜を混ぜたような匂いが、一気に鼻を突く。

同じようにゾラが舌打ちし、身を乗り出す。

「なにか噛んでる?……玉?」

彼女の視線の先、向こうのガイドロールにも白い球体がいくつもレールに張り付いていた。表面は薄い膜で覆われ、うっすらと中で何かが動いている。

「うぇ、マジでキモね」

ゾラは目を細め、狙いを定めて撃つ。白い卵が弾け、緑色の粘液が飛び散った。 だが、奥でぬるりと動いた影が、しゅるりと穴の奥へ滴り落ちていく。

「ゲぇ…マジで気持ち悪ッ!虫?」

ゾラが顔をしかめた、その瞬間、別の卵が自ずとぷつりと裂けた。 中から――脚。細長い節足の脚。濡れた羽。光を反射する無数の複眼。ボーリング玉くらいのハエ。

シルヴィアがゾラに叫んだが――遅かった。

「ッマジ!」

ゾラが咄嗟に撃つも、弾は虫の横をかすめる。虫は悲鳴のような羽音を立ててゾラに飛びかかった――その直前、銃声。

ダリアがゾラに飛びかかる虫を撃った。弾が命中して、虫は緑の体液を撒き散らしながら奈落に落ちていった。

……だが、それだけではない。周囲の卵が、一斉に水音を立てて裂けていく。脚が蠢き、羽音が重なり、空気が振動する。

「最悪ッ」

ゾラが舌を出した。 ――無数の耳に障る羽音。背筋に鳥肌が立ち、全身が痒くなる。玉という玉から、何十匹もの虫が飛び出した。体長は人間の上半身ほど。歪んだ脚、鋭い顎、ぬめる羽。目も、耳も、皮膚も、吐き気を誘う“存在そのものの嫌悪感”。

「技術兵。詰まりを処理しろ、他は撃て!」

イリーナの怒声が響いた瞬間、戦闘が始まる。全員が昇降機に飛び交いう虫を撃ち落とす。

私も軽機関銃を乱射した。弾丸が虫の甲殻を砕き、誰かが殺した虫の熱い体液が顔に飛び散る。頬に何かが触れた――ざらついた羽。

反射的に首を振ると、顎の先端が髪を掠めていった。熱いものが一筋、首筋を這う。――血か? いや、体液だ。

酸味と腐臭が混じった匂いが鼻腔に突き刺さり、胃が反転する。一匹の虫が腕にしがみついた。節足が肌をひっかく。

爪を立てられたような痛みと同時に、羽音が耳元で炸裂。

息が詰まり、喉の奥が縮む。虫の顎が喉元に伸びた瞬間、引き金を引いた。至近距離で頭部が弾け、緑の粘液が頬に温かく降りかかる。一瞬だけ視界が白くなり、汗と体液と涙の区別がつかなくなる。

しかし――虫は尽きることがない。次々と羽音を強めながら、顔へ、胸へ、眼球へ飛びかかってくる。

「どれだけいるんだ、こいつらは!」

「あなたが死ぬまでよ。生きたきゃ殺しなさい!」

私の叫びにゾラが対物ライフルを放ちながら答えた。その隣でシルヴィアが冷徹に撃ち抜くのが見えた。虫の頭部が弾け、酸っぱい臭いが充満する。

卵が割れるたび、羽音が増す。耳鳴りのような高音が鼓膜を刺し、胸の奥までざわつかせる。息を詰め、引き金を引き続けた。

「キリがないですね、大佐!」

ダリアが兵士に飛びつこうとした虫を蹴り上げる。甲殻がバキリと折れ、虫が二つにちぎれて落ちていく。

「……こいつらを全滅させるか、ね。害虫駆除は専門じゃないけど」

シルヴィアは二丁の拳銃を抜き、舞うように射撃する。三匹を連続で射止め、死角から飛んできた一匹を、袖から出した仕込み銃で撃ち抜き、深く息を吐いた。薬莢が雨のように落ち、虫の欠片が床を覆う。

それでも――羽音は止まらない。吐き気を催す臭気と汗で、手のひらが滑り始めていた。

「修理はまだか。このままじゃ弾が尽きるぞ」

私は虫を撃ち落としながら、手すりに片足をかけ、逆さになってレールの裏側を覗き込んだ。

そこは地獄だった。レールの下からは、孵化したばかりの幼体がびっしりと張り付き、脈打つように羽を膨らませている。

一発撃ち込むたびに、幼体は裂けて奇声を上げ、ぬるりとして落下していく。羽化したばかりの脚が必死に動き、レールをかすめながら通り過ぎていった。

突如、冷たく、ざらついた毛が触れた瞬間、背骨が跳ねた。虫が耳元を通り過ぎた。

「……多すぎる」

呼吸が荒くなる。汗がこめかみを伝い、目に入りそうになるのを瞬きで追い払う。ほとんど撃ち尽くしたと思ったその時、対面のレールに視線を移し――言葉を失った。

「……マジかよ」

見渡す限り、虫。レールの四方に張り付き、縦穴の下の方まで白い塊がぎっしり。撃ち込んでも撃ち込んでも、終わりが見えない。

一匹殺すごとに、幼体たちが羽音を立て、歪んだ脚でレールを這い上がってくる。

「クソッ!下が見えない……これじゃ向こうは動けない」

指先が痺れ、握っている銃が汗で滑りそうになる。焦りで心臓が早鐘を打ち、耳の奥で血流の音が響く。

そのとき――昇降機が強く揺れ、全身が宙に浮いたような錯覚に襲われた。

「修理完了、動きます!」

兵士の叫びが聞こえたが、まだ胸の鼓動は乱れたままだった。私は身を乗り出し、対面の昇降機に向かって叫んだ。

「飛び移れ、そっちはダメだ!虫が多すぎる!」

対面も叫びに気が付くも、遅かった。距離がみるみる開いていく。もう届かない――そう思った矢先、誰かが跳んだ。

黒いコートの裾が視界を切り裂く。

「ミア!しっかり受け止めなさい!」

その声は――シルヴィア。

私は一歩踏み出そうとした……が、横腹に重い衝撃。虫の体当たりだ。冷たい殻とざらついた節足が肌を掠める。息が詰まり、体勢が崩れる。反射でナイフを抜き、虫の胴に突き立てた。緑色の体液が腹に温かく広がり、甘ったるい腐臭が鼻を刺す。

目を上げた時――もう間に合わない。声にならない息が漏れる。

だが――見えたのは、イリーナだった。

彼女は腕を広げ、迷いなくシルヴィアを抱きとめた。金属の床が軋む音。イリーナの顔が一瞬、歪んだ――驚きか、安堵か、それとも別の何かか。

「あなただったのね……ドラマチックな展開ね」

シルヴィアは涼しげに笑い、イリーナの胸に手を置いた。

「……無理をするな。お前がそんな考え無しだったとはな、見損なった」

イリーナの声は低かったが、その額には一筋の汗が伝い落ちていた。その汗を、シルヴィアが指先でそっと拭った。一瞬、イリーナの目がわずかに揺れた。

「話はあとだ、向こうのレールに卵がまだある!」

私は声を張り上げ、銃を構え直す。対面のレールには、まだ卵がびっしりと貼り付いている。銃声が再びキャビンに反響し、緑色の粘液が飛び散った。

「あら、ごめんなさいね……降ろしてくれるかしら、イリーナ?」

シルヴィアの冗談めいた声に、イリーナは気づいたように慌てて彼女を降ろした。その動きは珍しくぎこちなく、銃を構え直す手も少し震えていた。

シルヴィアは二丁の拳銃を抜き、迷いなく虫の群れに弾を叩き込み、私はその隣で撃ちまくった。

卵が潰れるたび、幼体の悲鳴と体液の飛沫が耳と頬に突き刺さる。

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